2017.5.11に行った太宰治『きりぎりす』読書会のもようです。
信州読書会のメルマガ読者の皆さんも大勢感想書いてくれました。
ありがとうございます。
私も書きました。
「但馬のばかが、また来ましたよ(笑)」
夫を日陰の生活で支えていたほうが、この小説の語り手の妻は、幸せだった。夫の作品の高潔な品位は、妻の献身があってこそ、成立していたと、彼女は信じ切っていた。彼の初期の代表作は、夫婦の共同作業で生まれたはずだ。
淀橋アパートの二年間こそが、自分たち自身を見失いながら、最も自分たち自身だった幸福な時代だった。夫は、清貧の画家、シャヴァンヌの如き厳格な祈りを求めて、創作にはげみ、妻も尼僧のように、生活を夫に捧げ、創作の傍らで、無垢な一体感を感じていた。
しかし、敏腕プロデューサー但馬が、頃合いを見て夫の作品を本気で売り出したとたん、陶酔した修道僧のような生活からさめて、夫は、どこか「しらふ」になった。
新浪漫派を標榜したということは、世間が、好意を持って反応するツボに迎合したことなのだ。長いスパンで、売れるツボへと、夫を誘導し、金の力で、ずるずると芸術運動に引きずり込んだのは、但馬の悪賢いところだった。
彼の巧みなマネージメントが、夫を、急激に堕落させた。迎合するたびに、夫は、イロニー(自己否定による自己正当化)を深めた。(ロマン派のイロニーというのは、本来、そういう下等な自己欺瞞なのだ)
ロマンを悪用して、世間を騙すためには、まずもって自分たちを欺かなければならないものだから、この二人は戦時中の暗い世間がもとめた浪漫に迎合し開き直った。無垢を信じたい妻は、但馬と夫の共同作業に、ついていけなかった。
夫婦の無垢な夢から覚めて、我に返った。とたんに、別れたくなった。
「無知は富と結びついてはじめて人間の品位をおとす」と、ショウペンハウエルは書いたが、浪漫と金が結びついてはじめて、この夫は、品位を落とした。
本来なら、この妻は、但馬に怒ればいいのだ。
しかし、但馬にだまされたのは、彼女とても同じである。
結局、この夫婦は、但馬の策略によって、まんまと鳴かされていた、愚かなこおろぎなのである。
断じて、きりぎりすではない。
(おわり)
読書会の録音です。
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