読書会について (中級編)

読書会初心者には、海外古典小説をの中編作品が、最適だということを、

初心者編でお話しました。

 

ここからは、読書会がさらなる深い体験になるため

中級者へのお話です。

 

海外古典作品(とくに近代文学)を理解するには、

キリスト教への理解が、もっとも重要です。

 

特に欧米の小説は、キリスト教と切ってもきれません。

 

以前に、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』が

光文社古典新訳文庫でベストセラーになりました。

 

読み易い新訳になったのはわかるのですが、

やはり、キリスト教への理解がないと、

日本人には、小説の内容が、いまいちピンとこないのです。

 

なぜなら、主人公のアリョーシャは、ロシア正教の見習い修道僧です。

そして、彼の兄であるイワンは、無神論者(正確には、理神論者)なのです。

 

この二人の対立が、『カラマーゾフの兄弟』では重要なテーマになっています。

 

『カラマーゾフの兄弟』では、ハードルが高いということなら

『罪と罰』です。

この作品は新約聖書の『ヨハネの福音書』の『ラザロの復活』をめぐる物語です。

キリスト教徒ではない日本人には、『ラザロの復活』の重要性が全くわからないです。

私は、露文科をでているのにもかかわらず、いまだに『罪と罰』と『ラザロの復活』について

触れられている著作は。小林秀雄の 「ドストエフスキーの生活』しか知りません。

 

小林秀雄はドストエフスキーの『罪と罰』を、キルケゴールの『死に至る病』の

注釈だと述べていたそうですが、

同じことをカール・バルトという20世紀最大の神学者も述べているそうです。

 

ということは、文学的に言えば日本人のロシアに関する知識というのは

まあ、二葉亭四迷が最高峰で、小林秀雄

あとは、神西清、後藤明生、(米原万里)を挟んで

あとは、五木寛之でも佐藤優でも

そんなに進歩がないということです。

 

ロシア文学に関してはさておき

キリスト教への理解がないと、西欧の歴史も文学もその大部分は

わからなくなってしまいます。

 

わからないまま読むので、多くの人が挫折します。

 

私もそうでした。中学生で読んで、途中で挫折です。

恐ろしいことに、ロシア文学科にすすんでロシア語を学んでも、

うっすらとしか、理解できませんでした。

 

ようやく理解できたと思えたのは、社会人になって

人間関係でいろいろ悩んで、本気で聖書を読むようになってからでした。

 

欧米の小説は、これは根本にキリスト教の影響があります。

聖書を読んだうえで、近代小説を読むのです。

 

欧米の小説は、登場人物全員が、キリスト教の深い影響にあるので、

彼らの言動や心理にある根本的な動機は

キリスト教がどういう宗教なのか理解していないと、

まったくわからないのです。

 

私は、キリスト教徒ではないし、特定の信仰はないのですが、

悩むことがあって、聖書を読んでいた時期があります。

 

ただ、自分が深く悩んで、絶望した時に、

なぜ、人間が宗教を必要とするかわかりました。

 

また、日本人の宗教意識が、なぜ曖昧なのかも、だいたいわかりました。

 

その理由を説明すると、長くなるので、お話しませんが、

キリスト教への理解が、海外古典小説を理解するうえで

非常に重要であることは、その時、しみじみ感じました。

 

悩みのない人生というのもうらやましい(恨めしい?)のですが、

キリスト教というのは人間の悩みを百科事典で紹介してくれる

論理的な宗教です。(だからとはいえ、すばらしいわけではない)

 

キリスト教の入門書はたくさんあります。

 

それらを読んでキリスト教を理解できるかは、わからないのですが、

人が読書に駆られるのは、何らか自分の中に、

「生きづらさ」を感じたときだと思います。

 

「生きづらさ」を感じて、それがある程度のレベルまで達すると

人は、宗教に頼ります。

 

私の場合は、聖書を手にしました。

 

すべての人が、こういう体験をするわけではないので

一般化することはできませんが、

生きることの意味や、身近な人間の死など

何かのきっかけで、宗教に関心をもつことが

人生の中ではあると思います。

 

日本人の宗教意識というのは、そういうものでしょう。

 

しかし、欧米の人は、神がこの世を作ったと本気で信じています。

 

嘘だろと思うかもしれませんが、

 

その証拠に、欧米では、無神論者というのが

蛇蝎の如く嫌われるということです。

 

この感覚が、わかっていないと、欧米の小説は

わからないといっても過言ではありません。

 

 

私からすると

『罪と罰』のラスコーリニコフも

『異邦人』のムルソーも

『変身』のグレゴール・ザムザも

無神論者に近い人物だと思うのですが、

金貸しの婆さんの頭を斧で割ったり、

アラブ人を拳銃で殺したり、

ある朝、毒虫になっても、動揺しないこれらの

登場人物は、実は深く、

キリスト教の根本的な問題に関わっているのです。

 

それは、神はいるのか、いないのかということです。

 

これらの小説の登場人物も必ず何かを信じて生きています。

その何かが、具体的に「神」ではなくても、

信じているものがあります。

 

信じているものに従って、考えたり行動したりします。

 

そして、その言動や心理の究極の問題は、やはり

神がいるかいないかという、信仰問題に深く関わってきます。

 

日本に住んでいると、このへんの感覚に自覚がわかないですが、

要するに、

日本でいう無神論者の考え方は、簡単にいえば

日本国憲法の第一条から第八条をみとめない立場ということです。

 

こういうことを公でいえば、周囲の人にギョッとされます。

 

なぜ、ギョッとされるのか?

 

ここに、大きな問題があるのですが、

これが欧米でいう無神論だと思ってください。

 

我々日本人も、自明すぎて、考えなくなっている信仰問題があります。

 

それは、政治問題として取り上げられることはあっても、

我々自身の、頭のなかの問題として、

生々しくクローズアップされることはありません。

 

ただ、読書会をすることで、実は、

我々の信仰の問題も問われることになります。

 

海外古典小説の、キリスト教の影響を考えれば、

日本人としての我々の信仰問題も、くっきり見えてきます。

 

この部分は、おそらく学校教育で、しっかり教わらない部分でしょう。

 

社会人になれば、「政治と宗教と野球の話はするな」と教わりますが、

これは、他人との摩擦を極力なくすという意味で

一理ある考えだとはいえ、これだけ国際化して

英語も小学生から習う時代になっているのに、

政治や宗教への理解がないというのは、

英語が喋れても、欧米人の思考がわからない

不思議な人間をたくさん産んでしまいます。

 

また、日本人は議論(ディベート)が苦手だといいますが、

ディベートとは、

根本的には、神がいるのかいないのかという

神学論争です。

 

そういう論争に縁のない、大半の日本人が、

議論をしないで、「和をもって尊しとなす」で

生きてきたのは、文化の違いとしてやむをえないところです。

 

しかし、このへんの議論に参加できないでいると

国際化やグローバリズムという名の、ある種の暴力にさらされても

なすすべもなく立ち尽くす日本人の悲劇的な運命が待っています。

 

このことを、深く自覚するのが中級以上の読書会になります。

 

一度外国人として、日本を見直すという作業をする。

 

それによって、外国のことも、日本のことも深く理解できる。

 

それが中級者の読書会の目的です。

 

ある程度、読む力がついたところから、

キリスト教の諸問題を扱いながら近代小説を読んでいきます。

 

そして宗教理解を深めるのが、中級者の読書会になります。

(但し、誤解のないように言っておきますが、宗教批判ではありません。

信仰の自由を認めたうえで、お互いを理解し合うということです。)

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