読書感想文のすすめ 書き言葉はバックハンド

三色ボールペンをつかった読書を提唱している齋藤孝さんが『読書力』 (岩波新書)
という本の中で、こう述べています。

卓球やテニスでは、フォアハンドはある程度の運動神経があれば

何となく打てるが、バックハンドとなると

きちんと習わないとしっかりとした球は打てない。

話し言葉はフォアハンドのようなものだ。

知力に応じて、各人何となくできるようになる。

しかし、書き言葉はバックハンドのようなもので、

意識的な練習(ここで言えば読書など)を経なければ

試合で使える技にはならない。 (P166)

言い得て妙だと思います。
私も、たまに、

『文章が苦手なので、文章をかけるようになりたい』というメールを頂きます。

 

私は、他のブログで、ライティングの個別指導をやっているのですが、

何人か、指導してアドバイスさせていただいてわかったのは、

文章を書くというのは、ある程度、インプットがないと

できないということです。

 

つまり、何らか頭のなかに、「インプット」=「文章のネタ」になるものがないと

何も書けないということです。

 

いきなり何か書けと言われても、文章を書く習慣のない人は、何も書けません。

 

メールやLINE、Facebookで、文章を書いている人は多いですが、

それだって、せいぜい200字程度で、身辺雑記の粋を超えません。

 

身辺雑記というのは、自分の日常体験を報告していることが多いです。

 

この場合は、日常体験が、「インプット」です。

 

たとえば、「とんこつラーメンを食べた」というのは、インプットです。

 

夕食作って待っている家族に「とんこつラーメン食べた」と報告するのは

「だから、夕食はいらない」ということを伝えていることになります。

 

友人にLINEで、「明日ラーメン食べに行かない?」と誘われて、

「とんこつラーメン食べた」と報告すれば、「じゃあ、お好み焼き食べに行こう」と

他の提案をされるかもしれません。

 

 

翌日、お腹が痛くなって、お医者さんに行って、診察で

「とんこつラーメン食べた」といえば、腹痛の原因として

お医者さんに、昨夜食べたものを報告していることになります。

 

このように、どの場面で、誰に向かって伝えるかで

「とんこつラーメンを食べた」というインプットの意味は変わってきます。

 

これは文脈(コンテクスト)によって、インプットの意味が変わるということです。

 

私は、10年以上ブログ書いているので、

人は一度はブログを書いたことがあると思い込んでいたのですが、

色々聞いてみると、案外、ブログを書いたことある人は少ないとわかりました。

 

これだけ、ウェブ環境が進化して、スマホやタブレットで

どこでも、電子書籍を読めるようになり、動画も普通に見るようになったのに、

大半の人は、ウェブでの情報の受け取り手であり、発信者ではないのです。

 

なので、ウェブ環境が進化したからといって、

不特定多数の人に、自分の文章を発表して、読んでもらうという

積極的な活動をする人は少ないということです。

 

もったいないなあと思います。

 

ということは、日常体験のインプットを、文章という表現に変えてゆく

『アウトプット』の習慣がある人は、ごく限られるということです。

 

ほとんどの社会人は、まとまった文章を書くという習慣がありません。

 

会社勤めしていて書く文章は、文例集があるくらい形式が決まっていて、

独創的な表現を求められていません。

 

また、商品の広告や宣伝媒体でのコピーの作成は、だいたい広告代理店やライターに

おまかせだと思います。

 

ということは、世の中は、文章を書く能力のない人が圧倒的多数です。

 

学校で、小論文書いたり、国語の試験を受けたりしたあと、

自発的に自分の考えをまとめるようなことは、ないのです。

 

そうなると、どういうことが起こるかというと、

自分の考えを求められたときに、そもそも自分の考えがないので、

テレビで聴いたことや、どこかで聞いた誰かの意見などで

自分が好ましいと思う意見を、自分の考えとして採用します。(パクります)

 

あるいは、考えを求められても、

「自分とは関係ないのでわかりません」と

開き直りのような、言い逃れをします。

 

自分が好きで食べた「とんこつラーメン」の話はしても、

それ以外の話題には、一切興味のない人間になります。

 

女性週刊誌は、女性の半径10メートル以内の話題しか

書いていなくても売れるといいますが、

実は、多くの人の人生も、自分の半径10メートルの範囲の

想像力でおさまる話題が、もっとも重要なのです。

 

今の我々の社会はは、日常体験と、マスコミ、ネットで話題の情報以外には

関心がなくても、問題なく回るし、生きられるようにできています。

 

自分の考えがなくても、生きていけるのです。

 

自分の関心のあることだけ追って、

それ以外の話題は、その他大勢に考えをあわせる生き方です。

 

ただ、こういう社会は、本当に生きづらいです。

 

なぜなら、大勢の人の考えにあわせないと、白い目で見られるからです。

 

日本社会は「空気を読む」というのを大事にします。

周囲の人の顔色や雰囲気にあわせるのが、社会人の務めであると

暗黙のうちに、強制されます。「同調圧力」とも言います。

 

しかし、人間というのは不思議なもので、個性が抑圧されていると

自分が大切に扱われていないみたいに感じてストレスを感じます。

 

まるで、家畜になったかのように感じて

自分の人間らしさを、どうにか取り戻したくなるのです。

 

そうすると、なぜか、いじめやパワハラという形で、

自分より弱いものを探して、的にかけていたぶるのです。

 

そのまで、ひどくなくても、人をなめたり、馬鹿にしたり、

陰口言ったり、内心軽蔑するくらいのことは、多くの人はするでしょう。

 

「とんこつラーメン食べた」と同じ用な感じで、

「あいつムカつく」「あいつ死ね」とか言うようになります。

 

それは大げさかもしれませんが、小競り合いで不愉快な思いをしがちな国民性です。

そんな小競り合いとともに、慌ただしく過ぎていくだけの人生をおくります。

 

そして、自分を理解してもらうことがなくてさみしいおもいをしたり、

自分の気持ちを共感してもらえる人がいなくて、孤独を味わいます。

 

しかし、そもそも、真剣に、他人の気持ちを理解しようとしたり、

人の感情を共感してあげようとしたことがないのに、

自分だけは真剣に誰かにわかってほしいというのは、ずいぶん身勝手な話です。

 

孤独やさみしさを感じるのは、ものごとを

あまり考えないようにして生きてきたツケだと思います。

 

私が、スカイプ読書会ということで、受講者さんと読書しながら気がついたことは、

ひとりで読書していると、自分が、いったい

本に書かれている内容をちゃんと理解できているか、

確認する手立てがないということを、痛切に感じさせられるということです。

 

学校の教科書で読んだ文章であれば、それを元にテストが行われて

ちゃんと読めていなければ、点数で、理解できているかいないかがわかります。

 

でも、社会に出てしまうと、どんどん文章を理解できているかいないか

確認して貰える機会がなくなります。

 

間違って理解しても、間違ったままで一生気づかないかもしれません。

 

さらに、文章が理解できていないことよりも怖いのは、

目の前の人の考えていることを理解できていないケースです。

 

上司の考えていること、部下の考えていること、夫や妻の考えていること

子どもの考えていること、それらを誤解したまま生きていれば、

人生を狂わせる原因になります。

 

わかっていたつもりで、すごしていても、何かのきっかけで、

目の前の考えていたことをまったく理解できていなかっと

気がつくことがあるかもしれません。

 

それが「とりかえしのつかないことだったら」、と思うと、ぞっとしませんか?

 

ある日、親しい人が亡くなってしまったとします。

 

生前に接していて、ほんとうのところその人が何を考えていたのかを

遺書によって克明に知らされて、その内容が、自分の理解を超えていたら

きっとショックを受けるでしょう。

また、内容によっては、「とりかえしのつかないことをした」という

後悔に苛(さいな)まされるかもしれません

 

ここまでのことではなくても、許せなかったり、忘れようとしても忘れられない

人間のトラブルは、誰でも多少あると思います。

 

そして、トラブルが多い人は、やはりコミュニケーション能力が足りないのだと思います。

 

生まれながらにコミュニケーション能力が足りないというよりも、

それは、人生のある段階で、考えることをやめてしまったゆえに起こる

悲劇だと思います。

 

口下手で、人に思いを伝えるのが下手な人は、どうしたって我慢の人生になります。

人の考えが理解する気がなかったり、人の感情に共感を示そうとしない人は、

嫌われたり疎まれたりして、孤独の方へ傾いていきます。

 

そうならないためには、コミュニケーション能力を鍛えるしかありません。

 

そのために、たくさん文章を書いて、人に読んでもらえる文章とは何かを学ぶのが

一番手っ取り早いと思うのですが、これはめちゃめちゃハードル高いです。

 

そもそも、考えることを放棄して生きているのに、書くことなんてないのです。

 

考えることをしないと、いくら文章を書いても、人の心に響く文章は書けるようになりません。

 

まずは、考えることが大切です。

 

そのためには、読書をして、読んだ本の感想文を書いて

それを人に読んでもらうというのがもっとも効果的です。

 

感想文が、全然見当違いだったら、それは読めていないということです。

読めていないというのは、考えて読んでいない証拠です。

 

その本の筆者が、どういうことを伝えようとしているのか真剣に読み取ろうとしなければ

その本についての感想はかけないし、感想を書いても読んでもらえません。

 

なぜなら、感想がおかしかったら、その本を読んだ人たちは、

感想を書いた人の理解が不十分か、誤解だらけだと思うでしょう。

 

そうなると、その感想文自体価値無いものだと思って読まないのです。

 

例えば、ブログに読書感想文を書きます。

 

良い読書感想文を書けば、からなず同じ本を読んで同じ感想を抱いた人が

そのブログの文章を何度も読みに来てくれます。

 

逆に、読書感想文が読まれていなければ、それはせっかく書いた感想文が

見当違いで、誤解だらけで、一方的で、不愉快で、読みたくない無価値なものだということです。

 

それは、あなた自身の考えが、そういうものだと受け取られているという冷酷な証拠です。

 

本を読んだその人の考えが、未熟だということです。

 

この社会で、面と向かって「考え方が未熟ですね」と言われることはありません。

なぜなら、未熟であっても生きていけるからです。

 

ただ、未熟であるゆえに、被る不利益はなにかとあるでしょう。

 

それは、先ほど例に上げたように、身近な人すら

理解できていないという後悔をおぼえることかもしれません。

 

身勝手さに疑いのないまま、嫌われて、疎まれて孤独に生きるということかもしれません。

 

あるいは、付き合いを拒まれるほど、無価値な存在だとみられることかもしれません。

 

自分のことだと認めたくない ほど、恐ろしいことです。

 

未熟だと思われるというのは、これぐらい残酷なことです。

 

読書する人が減る一方で、コミュニケーションとも言えないような

つまらないつながりに一喜一憂して、振り回されている人は増えています。

 

私は、こういう状況が、これからもどんどん進むと思っています。

 

本を読むことは、知識を詰め込むことだと誤解している人が多いのですが、

そうではなくて、本を読むことは、人間を理解することです。

 

人に対して、しっかりとした考えのもとで、接してあげないられないと

人はだれも愛せないし、そして誰から愛されません。

 

愛するというのは、人の可能性を信じ続ける覚悟です。

 

信じ続けるためには、考え続けないといけません。

 

考える覚悟がなければ、誰からも愛されない、そして誰も愛せない

よって、なんの幸福も、喜びもない世界を生きることになります。

 

そうならないために、我々は、本を読むのです。

 

読まなければならないのです。

 

なぜなら、読書習慣は、まだ日本が誇れる文化なのです。

それすら失われたら、我が国は世界の荒波に沈んでいくでしょう。

 

 

そうなれば、自分の考えを持たないで生きているということは、

奴隷として、他の国に政治的にも、経済的にも支配されるのと同じことなのです。

 

そうすれば、日本語で考えることを禁止されて、

外国語で生きることを強要されるでしょう。

 

そんなまさかな時代が、もうわれわれの目の前に来ているのです。

 

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