カミュの『異邦人』を精読する講座

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カミュの『異邦人』を精読する講座です。

『異邦人』についての感想 「無神論者としてのムルソー」

異邦人というのは、『無神論』、あるいは、『理神論』を扱った小説です。

ということは、キリスト教徒でないと、理解できない小説です。

高校生に読ませる課題図書として選ばれていますが、

これは、かなり難しい小説です。

 

ここからは、私の解釈です。

おそらく日本のどの解説書にも書いていない解釈ですので、

こういう解釈もあると思って、読んでいただければと思います。

 

フランスの植民地であるアルジェリアで

ムルソーは明確に無神論者です。

無神論者は、フランス語でathée(アテ)といいます。

英語ではエイシスト(atheist)です。

(「似非(えせ)」の語源は、「athe=無神論者」だそうです。)

無神論者というのは、日本人には理解し難いのですが

カソリックがあたりまえだと思っている観念を

すべて拒否します。

 

 

つまりは、

ムルソーが

ママンの喪に服すの拒むのも、

マリイとの恋愛感情を、神の名において『愛』と誓うことに無関心なのも、

(それゆえに、マリイは、がっかりした顔をする)

予審判事が目の前にかざす十字架を、認めないのも、御用司祭を罵倒するのも

彼自身が、無神論者として、明確に選びとった立場に基づいて、行っていることです。

 

 

ムルソーがなんとなく、虚無主義で、無関心を旨としているために

認めていないのではなく、

無神論者としての明確な意志があってやっていることです。

 

フランスの啓蒙主義、それは、第一身分の僧侶、第二身分の貴族の信奉する

カソリックの教義と、血みどろの戦いを繰り広げる『フランス革命』を準備した

ヴォルテールの理神論や、ディドロの無神論へのオマージュです。

 

そして、それはシェイエスのいう『第三身分とは何か』にも入れなかった

植民地アルジェリア出身の一人の青年の貧困の中で生まれた思想です。

 

それが、ムルソーの頑なな態度に現れているのです。

 

ムルソーは、気合の入った無神論者なので、

「人間は原罪を背負って生まれてきた」というような

フランスの多数派であるカソリックの考え方しません。

 

ムルソーは原罪を、認めていないので、

独房の、石の壁が汗をかくことはないし、

悔恨ゆえに心の奥底に、神の顔など浮かんでこないのです。

 

原罪ではなく、ひとりのアラブ人を殺した罪しか認めていないのです。

それに対しては、謙虚に人間の裁きだけ受けようという立場です。

 

それが、たとえギロチンでの死刑であってもです。

 

ムルソーが上訴や、恩赦の望みも、自分から断ったのは、

フランス人民の名において死刑を宣告されたこと以上のことを

求めないからです。

 

 

それを求めると、神を信仰しなければいけません。

つまり、神の名において恩赦されるのを拒否するからです。

 

これはどういうことかというと、

つまり、なぜ最後に御用司祭が来たのか?

という問題があります。

 

これは、教誨師として、死刑囚ムルソーを慰めに来たのではなくて

あくまでも私の考えですが、

ムルソー恩赦の可能性があったからだと思います。

 

 

司祭は、恩赦と関係ないと予めムルソーに伝えていますが、

あそこで、ムルソーが改心して、カソリックに改宗すれば、

彼は、死刑を免れるという司法取引があったのではないかと思います。

 

しかし、司祭の訴えにも耳を貸さず、司法取引を拒んで

ムルソーは自分の意志で、死刑を選んだのではないでしょうか。

 

 

自らの意志で、死刑を選んだいうのは、

カソリックに改宗するなら、

自殺する方がマシだということです。

 

 

なぜ私が、このような解釈をするかというと、

カミュの哲学を理論化した著作である

『シーシュポスの神話』(新潮文庫)の一行目は

『真に重大な哲学上の問題はひとつしかない、自殺ということだ』

だからです。

 

これを小説化したのが、『異邦人』だと、私は思います。

 

 

人間の裁きであるならば、死刑を受け入れる。これがムルソーの立場です。

しかし、世間は、死刑に、神の裁きという正当性を求めます。

 

「ムルソーさん、あなたが、神の前で、悔恨の意を告白すれば、

上訴の受理や恩赦によって、死刑を免れる裏道もありますよ。」

 

おそらく、御用司祭は人道的に、こういう司法取引を

ムルソーに勧める役割を担って、拘置所にやってきているのです。

つまり、これは、死刑を、神の裁きという道徳上の問題として扱っていることになります。

 

神の前に、悔い改めるか、神に反逆して死刑を受け入れるか?

ムルソーは、その二者択一を迫られています。

そんなことは小説には、書いてないのですが、その可能性があったかもしれません。

 

 

その可能性があるから、ムルソーの改悛をさせようと

何度も、訪ねてくるのです。

しかし、あくまでも、御用司祭の司法取引は偽善だし、

それは結局、自分が従っている理性を踏みにじることだ

というのが、ムルソーの立場でしょう。

 

 

カソリックの押し付ける偽善を受け入れるくらいなら自殺もいとわない。

それが、己の理性の命ずる最も懸命な選択だ。

 

人間は、神ではなく、理性に従って生きている。

 

これが、ムルソーの立場であり、カミュの実存主義の核心です。

ムルソーが御用司祭の胸ぐらをつかんで、

原書 J’avais eu raison,j’avais encore raison,j’avais toujours raison.

(私はかつて正しかったし、今もなお正しい。いつも、私は正しいのだ)

と激昂します。(avoir raison = 正しい)

(英語で言えば be rightですが、それだと『理性がある』という意味がなくなります。)

ここで、重要なのは理性(raison リーズン レゾン)です。

 

これは「おれには理性があった。今も理性がある、いつも理性で生きてきたんだ

だからお前のいうイエス・キリスト=神など信じない!!」ということが

ムルソーにとって大事なことなのです。

 

ムルソーが、カソリックへの改宗を拒んで、上訴や恩赦も拒否して

あくまでも理性に従って、自ら死刑を選んだこと。

 

これが、異邦人の物語の主題です。

 

 

御用司祭の、本気の説得は、

ムルソーに神を選ぶか、死刑を選ぶか、

究極の選択を迫っていたと解釈もできます。

 

 

御用司祭も、拒否されれば、自分の信仰が試されるので、

必死でした。泣きながら説得します。

 

 

でも、ムルソーは、御用司祭の人生は、

女の髪の毛一本にも値しないと罵倒します。

 

 

そういう思想的なドラマが、繰り広げられ、

この人間の社会は、ムルソーは狂人だったということで処理します。

 

あいまいな空気で、

「フランス人の社会は、植民地といえども

無神論者は、人間扱いしない」という事実を隠しながら

すべて、うやむやに処理されるのです。

 

理性だけを信じる人は、フランスでは無神論者という扱いになります。

 

(ただ、理性を重んじるから、いまだに共和制のお手本みたいな国なんでしょうが。)

 

社会の秩序に従っているようでも、

一度、被告人になれば、無神論者は、理性的であっても

狂人扱いされて、人間としてみなされない。

 

こういう冷酷な事実を描いています。

 

 

 

ムルソーには宗教心がないわけではなく、

理性によって宗教心を批判しているというのが

正確なところでしょう。

 

 

では

なぜ「太陽のせいだ」

というアラブ人を殺した理由のセリフがあるのか?

 

それは、

太陽のまぶしい光だけが、真理であり、

太陽を中心とした自然の秩序だけが、人間を司っているのである。

 

それ以外の、見えもしない、感じられもしない

神という抽象的な概念を、ムルソーの理性は、太陽のまぶしさ以上に

信じはしない。

 

ということを言いたかったのだと思います。

 

もしかしたら、女衒のやくざ者レイモンを、親友だと思っていたから

ナイフで切りつけられた彼の仇をうつために、

アラブ人を、拳銃で撃ったのかもしれません。

 

アラブ人は、ナイフを持っていたので、

ムルソーの最初の一発は、正当防衛の一発だと解釈されます。

 

しかし、相手が倒れてからの4発は、明らかに説明がつかないです。

明確な殺意があります。死刑に値するかはわかりません。

 

ただ、昼食でマソンの別荘でワインを飲んで酔っ払っていた状態だった。

それで、気が大きくなったか、どうでもよくなって

残り4発を倒れている、アラブ人に撃ち込んだ。

 

こういう言い訳もできます。

 

酒に酔っ払って、理性を失って殺人を犯した。

 

これは、カソリック社会では、信仰に悖(もと)る行為です。

 

酒に酔って理性を失うのは、宗教上アウトなんですね。

裁判でも、陪審員の心証が悪くなるかもしれません。

 

 

だから、裁判においては酒のせいにもしなかったのかもしれません。

 

実際は、こんなところのかもしれません。

 

それが「太陽のせいだ」の意味かもしれません。

 

でも、快楽主義殺人に誤解される要素があります。

 

ここにはもうひとつ意味があって、

 

「太陽のせいだ」というのは、

無神論者の理性がみつめる真理はまぶしすぎて

社会をおおっている、あいまいな偽善を

全部まるっと、暴いてしまうぞ、という意味かもしれません。

 

秩序の側からすると、無神論者は、

真理をさらけ出している

危険思想なので死刑にするということです。

 

ローマン・カソリックとルネサンス(ユマニスト)の闘いを

再現していると言ってもいいのかもしれません。

天動説と、地動説の争いです。

 

この感覚が、日本人にはわかりづらいのですが、

植民地でのカソリック信仰を、考えるうえで私が

こういう比喩でとらえたほうがわかりやすいと思った事があります。

 

仮に、戦前、日本の植民地だった場所で、(台湾や朝鮮)

現地で生まれ育った、ムルソーのような日本人がいて

彼が、本国の現人神としての天皇を、自然に崇拝できるのか?

あるいは人格として、尊敬できるのか?

という問題があります。

 

もちろん、台湾人、朝鮮人は、無理でしょう。

しかし、現地の日本人も微妙かもしれません。

なぜなら、そこは植民地だからです。

 

もとからある独自の宗教・文化・慣習が存在します。

しかし、統治する側からすれば、秩序を維持するために

現人神という宗教性を信じてもらわないといけないのです。

(突き詰めれば、琉球王国だった、沖縄はどうなんだという話にまでなります。)

 

ムルソーが殺したアラビア人は、異教徒(おそらくムスリム)です。

異教徒を殺して、死刑というのは重すぎます。

でも、ムルソーは神を信じていないので、情状酌量の余地がない。

 

カソリックではないから同じフランス人ではなく、

ましては異教徒でもなく、ムルソーは社会秩序を乱す狂人だ。

非国民だ。

 

だから、ギロチンで死刑だ。

 

そう考えると、少しわかりやすいかもしれません。

 

大日本帝国憲法下では、恩赦は天皇の大権でした。(大日本帝国憲法16条)、

日本国憲法下では、恩赦の決定は内閣が行い、

恩赦の認証は天皇の国事行為として行われます。

(日本国憲法第73条7号、7条6号)

 

無神論者には、恩赦はありえません。

 

恩赦を認証する、超越的な存在を認めていないわけですから

人間の裁きが全てです。

 

キリスト教は、ユダヤ教から分離独立していく過程で

 

ディビニティdivinity(神の世界)とセキュラリティsecularity(俗世界、世俗)を分けました。

 

これは、聖書にある

 

「カエサルのものは、カエサルに、神のものは、神のものに返す」という

イエスの言葉に現れているといいます。

 

 

つまりは、

 

この世の正義は、俗世間と、神の世界で使い分けられているということです。

 

俗世間の正義は、カエサルのものですが、

 

神の世界の正義は、神を信仰するものたちの信じる正義だということです

 

これは、日本で、宗教法人に税金がかからない

根本的な理由だと思います。

 

つまり、信仰の問題に、税金をかけると、

それは信仰の自由を、国家が制限する、

あるいは侵しているという考えになります。

 

 

税金徴収の正義を、俗世間と、神の世界で分けています。

 

 

もともと、一神教のキリスト教の考え方です。

 

 

 

「カエサルのものは、カエサルに、神のものは、神のものに返す」

 

 

これは、民衆は、俗世の権力に納税しなければいけないし、

 

神の世界の権威としての教会にも、寄付しなければいけない。

 

 

この、この世の二元論の矛盾を、正当化する言葉です。

 

 

それぞれ、別次元だといううことなのですが、しかしながら、

これが、税金ではなく正義の話になると、一緒くたにされてしまいます。

 

ムルソーは、法治国家の正義によって裁かれています。

 

しかし、その正義が、予審判事や、検事や、御用司祭は

「神の裁き」に、なぜかすり替えていると思います。

 

 

ここで、俗世間の正義と、神の国の正義が、混同されています。

 

ムルソーは

 

第一部では、俗世間を生きているのに

 

第二部では、裁判所という法に支配された世界に生きています。

 

 

ムルソーは、

 

ママンの喪に服さなかったことから、コメディー映画をみたとか

女と寝たとか、ぐちゃぐちゃ道徳的なことを突っ込まれて、

死刑になってしまった。

 

それが法の支配となんの関係があるのか? そういうふうに読めます。

 

喪に服さなかったことは、アラブ人を殺した罪とは関係のない話です。

 

ムルソーは、俗世間の人間としては、いいやつだと思います。

だけど、神の世界では、無神論者=狂人です。

 

 

ヒューマニズムというのは、俗世間の考え方で、

神の世界に、ヒューマニズム(人道主義)はないと思います。

 

 

神の世界にはヒューマニズムの余地はありません。

神の世界は、神が絶対です。人道主義が通じない世界です。

 

 

あるのは、神と人間との契約だけです。

 

 

神は、人間の感傷を共有してくれません。

人間がいくら訴えても、情状酌量の余地を与えてはくれません。

 

 

 

俗世間の倫理からいえば、ムルソーの罪は本当は、懲役何十年が妥当なのに、

司法の側が(社会秩序の側が)

俗世間と神の世界を、混同しているために

神の正義を持ちだして、彼に死刑を宣告した。

 

無神論者に死刑を宣告したら

俗世の法の支配が、死刑に関しては

神の世界の善悪を含んでいることを、露呈してしまった。

 

理性に殉じて死刑に甘んじるソクラテスみたいな一般庶民が現れた。

そういう無神論者を、狂人扱いするしか誤魔化しようのない

死刑制度の欺瞞を告発している。

ここが、『異邦人』の面白さだと思います。

 

社会秩序に潜んでいるカソリックの偽善をカミュは、『不条理』呼んでいると思います。

 

その『不条理』を、理性によってまっすぐ見つめ続けることを

カミュは『反抗』といいます。

 

消極的な「反抗」ですが、この主題は『ペスト』のリウーに引き継がれています。

 

ユマニストの伝統を引き継いだ立場です。

 

あと、なぜ、死刑が決まった最終部分で、

「世界の優しい無関心に、心をひらいた」のか?

 

これについては、死刑を受け入れたムルソーの「デカセクシス」を描いているのだと思います。

 

ママンが、養老院で、もう一度人生をやり直すために生まれ変わったように、

死刑が確定したムルソーは、再度、自分が生まれかったことに気がつきます。

 

『死』を死ぬ覚悟ができたのです。

 

(その覚悟が、ゴルゴタの丘を登る、イエス・キリストになぞられて

パリサイ人に罵倒されながら十字架にかけられる福音書の記述と

見物人の歓声に迎えられながら、ギロチンにかかるムルソーの夢想が

重なり合うところにカミュの痛烈な皮肉が効いています。)

 

キリスト教の『最後の審判』や『永遠の生命』を明確に否定して、

俗世の人間として、死を死ぬ。死を受け入れる。

 

これが、人間中心主義者(Humaniste ユマニスト)のキリスト教に対する闘いです。

そのテーマは、フランスの共和制の理想を寓話化した『ペスト』に引き継がれます。

 

その後、フランスでは死刑が廃止されています。

死刑制度の存続する日本で、仮に沖縄にムルソーみたいな男が現れて、殺人を犯し

天皇陛下による恩赦を拒否すれば、日本の帝国主義的支配構造が、

沖縄の米軍基地問題(セキュラリティsecularity俗世界、世俗)とは

別の角度から(つまりは、ディビニティdivinity(神の世界)部分で)露呈するでしょう。

 

そういう意味で、日本の政治思想を考察する上で今でも読まれうる作品です。

 

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