遠藤周作『沈黙』ツイキャス読書会のもよう(2017.2.3)

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2017.2.3に行った遠藤周作『沈黙』ツイキャス読書会のもようです。

マーチン・スコセッシ監督で上映中の作品の原作です。

信州読書会のメルマガ読者さんにいただいた感想文はこちら

私も書きました。

『この国は沼地だ』

あらゆる宗教は、「信じる」という頭の中にしか存在しないことと、現実での社会生活との折り合いをつけていく営みだ、と私は考える。誰かに何かを「信じる」ということを教えるのは非常に難しいことだ。ご利益があれば、見返りがあるならば、信じられるけれど、頭の中にしか存在しないこと、それでいて、沈黙しているものを一方的に信じること、は難しい。信じさせることはもっと難しい。その上、信じることが、お上の意向と対立する場合においては、なおさら困難だ。イエズス会の宣教師たちは、はるばる日本まで、頭の中にしか存在しない「『神の概念』を『信じる』」ということを、教えにきたわけである。モキチやイチゾウの死は、非常に気の毒であった。彼らが、辛い現世を耐えかえて、ひたすらに天国(ハライソ)を夢見ていたとしたら、それは、あの世でのご利益や見返りを信じていることになる。しかし、宣教師たちは、信じることを教えに来たわけで、彼ら、か弱き者に天国を約束しに来たわけではない。宣教師たちは、天国を求めたり、聖母を崇めたり、十字架を欲しがる日本人信徒に不安をおぼえていた。なぜなら、ご利益や、美しさ、形あるものを求めるのは、信じることとは関係ないからである。偶像を信じることは、神を信じることとは何の関係もない。偶像を媒介しないで、どうやって、信じることを教えたらいいか宣教師たちは悩んだ。穴吊りの刑で、連帯責任を負わされて、棄教を迫られたとき、司祭ロドリゴは、はじめて、自分のこととして、「信じるとはなにか?」という問題を切実に考えることになった。日本に来る以前の彼は、自分が信じたいものを、勝手に信じていただけである。棄教しても日本で生きていかなければいけないことこそが、「信じる」ことのスタートラインだった。そこには、キチジローがいた。彼のように、『神の概念』がわからないのにもかかわらず、信じている人と同じラインで司祭たちも信じていかなければならない。自然崇拝しかないこの沼地には、『神の概念』は、根づかない。

(おわり)
読書会の音声です。

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