2019.9.13に行っったグレアム・グリーン『情事の終り』読書会のもようです。
『あとから通る人のために』
信じさせてください。私は信じられないのです。信じさせてください。私はいった。私はあばずれで偽物で、自分を憎んでいます。自分のことをどうにもできないのです。お願いだから信じさせてください。私はしっかりと目を閉じ、手のひらに爪をぎゅっと食い込ませ、しまいには痛みしか感じなくなった。そして言った。これから信じます。彼を生かしてください、そうしたら信じます。彼に今一度、機会を与えてください。幸福を味わわせてください。そうしてくだされば私は信じます。でも、それだけでは足りなかった。信じるだけでは痛みを伴わないからだ。そこで私は言った。私は彼を愛しています。そしてあなたが彼を生かしてくださるなら、私はどんなことでもします。私はとてもゆっくりとい言った。彼のことを永遠に諦めます。ただ彼を生かし、機会をお与えください。私は手をぎゅっと握り、爪を押しつけ、皮膚が切れるのを感じた。そして言った。人は互いに会わなくても愛し合えるものですよね、人とあなたのことを見なくても生涯あなたを愛しているのですから。そのとき彼が戸口に現れ、生きていて、私は悟った。彼なしで生きていく苦悩が始まるのだ。私は彼がドアの下で元通り死んでいてくれれば思った。
(P.180-181)
サラが死んで、時限爆弾が畳み掛けるように爆発するように奇跡が続いた。サラが神と果たした約束は、死んでなお、皆の人生の上に、次々と奇跡を起こした。
彼女の奇跡は、最初は、べンドリックスを爆撃から救い、死後において、スマイスの頬の痣を消し、パーキスの息子の風邪を治し、文学好きの女学生シルヴィアに、火葬場で浮気のために嘘をつかせるのを止めさせた。そして、サラは、咳をこじらせて死ぬことで、もう一度ベンドリックスを救った。
サラは、イエス・キリストであった。べンドリックスはイエスを裏切ったゆえに信仰にこだわらざるを得なかったユダ。ヘンリーが、鶏の鳴くのを聴きながらイエスを知らないといい、そして、サン・ピエトロ寺院のようなキリスト教の大組織化の象徴となったペトロ。それぞれなぞらえられる。べンドリックスとヘンリーが共犯者のようでもあり、同性愛なのではないかという気もした。磔刑の後、イエスの奇跡がなお続くように、ユダとペテロの末裔である彼らはサラの奇跡を目の当たりにする。サラは、カトリックに改宗して、ベンドリックスと結婚したいと思ったが、彼女はそもそも2歳のときにカトリックの洗礼を受けていた。
ベンドリックスは、教会に一緒に座っていながらも、サラが、神であり人であったイエス・キリストと、自身を重ね、イエスの痛みを共有していたことがわかっていなかった。ユダは縊れて死んだが、裏切り者が一番信仰に近いという意味で、ベンドリックスは、誰よりもサラを愛し、かつに憎む。サラは、ベンドリックスのために神とした約束のために、風邪をこじらせながら、彼をまくため教会にたどり着き、死んだ。(P250)しかし、ベンドリックスこそサラのために『あとから通る人のために』自己欺瞞を取り除き、信仰と救済への道を開いた。彼は、そのことにサラの手紙で気がつく。(P.284)
この小説は、イエスの磔刑3日後の復活とユダの自死を描いている気がした。
『私のことは放っておいてください』とはユダの叫びではないのか。
(おわり)
読書会の模様です。