志賀直哉 『小僧の神様』ツイキャス読書会のもよう(2017.1.27)

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2017.1.27に行った志賀直哉 『小僧の神様』ツイキャス読書会のもようです。

メルマガ読者さんに、感想文をいただきました。

感想文はこちら

私も書きました。

『本統のこころ』

Aは変に淋しい気がした。自分は先の日小僧の気の毒そうな様子を見て、心から同情した。そして、出来る事なら、こうもしてやりたいと考えていた事を今日は偶然の機会から遂行出来たのである。小僧も満足し、自分も満足していい筈だ。ところが、どうだろう、この変に淋しい、いやな気持ちは。何故だろう。何から来るのだろう。丁度それは人知れず悪い事をした後の気持ちに似通っている。若しかしたら、自分のした事が善事だという変な意識があって、それを本統の心から批判され、裏切られ、嘲られているのが、こうした淋しい感じで感ぜられるのかしら?

作者はなぜ、『本当』ではなく『本統』という言葉を使ったのだろうか?

『正統性 legitimacyレジティマシー』という言葉がある。これは、「(社会で)統一的な根拠を持っていること」という意味があるのだが、法哲学者の井上達夫氏の著書では、正統性の二条件を以下のように定義していた。

1.敗者が、次のラウンドで勝者になるチャンスがゼロではないこと
2.どんな無力な個人の基本的人権(自由・権利・尊厳)も侵害してはいけないこと

貴族院議員Aが秤屋の仙吉に鮨をおごる行為は、

1.いつか仙吉に、お礼に鮨をおごるチャンスを与えていない

(匿名で鮨をおごってしまうと、小僧は、Aにお礼できる可能性がない)

2.仙吉の基本的人権をどこか軽視していること

(Aは、仙吉を気の毒な「小僧」と決めつけて、彼が自分の金で屋台の鮨を食う可能性を奪ってしまった)

というこの二点において、正統性が担保されていない。

だから、『本統の心』がAを批判してきて、淋しい気がするのである。もし仮に、Aが仙吉の立場になったとき、鮨を奢られたら、お礼ができないことを後ろめたく思うだろうし、また、屋台の鮨を独力で味わう喜びを奪われたと感じたはずだ。仙吉の神様としてのAには、正統性はない。だが、お稲荷様がオチだったら、小僧の神様には、正統性がある。お稲荷様は食べ物の神様だから。

(おわり)

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