『カラマーゾフの兄弟』より 『イワンと大審問官』

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『イワンと大審問官』

イワンは、人間の再生を真剣に考えている恐ろしい思想家だ。

『あらゆる地上の国家がゆくゆくは全面的に教会に変るべきであり、
それも教会と相容れぬ目的をすでにことごとく排除したあと、
教会になるほかないのです。』(新潮文庫 上巻 P149)

『現代の犯罪者の良心は実に多くの場合自分自身と闇取引をして
『俺は泥棒こそしたが、べつに教会に逆らったわけじゃないし、
キリストの敵でもないんだ』なんてことを、現代の犯罪者は一人残らず心に言うんです。
しかし、教会が国家になり変るようになったら、
この地上のすべての教会を否定しないかぎり、
こんなこと言うのはむずかしくなるでしょうね。』 (新潮文庫 上巻 P152)

 

ユークリッド幾何学は、平行線公準『平行線は交わらない』を公理とした幾何学だ。

 

しかし、現実の社会は、ユークリッド幾何学のように整然とした秩序ではない。

 

人間は、平行線が交わるような矛盾を抱えて生きている。

その矛盾とは、自己欺瞞である。

 

人間は「いいわけ」や「正当化」という自己欺瞞を本性として抱え込んでいる厄介な存在だ。

 

 『人間に対するキリストの愛は、

見方によれば地上では不可能な奇蹟だよ。なるほどキリストは神だった。』

(新潮文庫 上巻 P595)

 

イワンは、人間の本性は、自己欺瞞であると考えている。

 

神としてのキリストの愛は、この地上では、

自己欺瞞を重ねる人間の手によって、歪められ別のものにされてしまう。

 

イワンが、例に挙げるのは、

 

教養豊かな人間が幼児虐待を嗜好する矛盾である。

 

例えば、幼児虐待を、子どもへのしつけだと言いはる親がいる。

 

これは、自己欺瞞である。

 

国家は、この狂った親の幼児虐待を裁くことはできない。

なぜならば、犯罪者たる親も、やはり自分と闇取引して、いいわけするからだ。

 

「私は我が子を虐待こそしたが、べつに神に逆らったわけじゃないし、
キリストの敵でもないのだ。
しつけが行き過ぎて我が子を殺してしまったが、愛情を持ってしつけたつもりだ。」

 

以上のような、自己欺瞞(いいわけ・正当化)を免れることのできる

親が、あるいは幼児虐待の犯罪者が、いるであろうか。

 

人間は必ず嘘をつく。

そして、自分のついた嘘を本気で信じる。

これが自己欺瞞だ。

 

自己欺瞞こそが、『カラマーゾフの兄弟』のテーマだ。

 

宗教(ロシア正教)も民族(ロシア人)も政治的理念(自由主義)も、

そして、恋愛や家族愛も、結局は、自己欺瞞だということを

ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』で繰り返し暴き立てている。

 

嘘を本気で信じるという、自己欺瞞は、法廷で暴かれる。

 

これは、アイスキュロスのオレステス三部作以来の

人類の普遍的な文学的テーマだ。

 

日本の幼児虐待犯も、法廷で、必ず自己欺瞞をさらけ出す。

 

ネズミ人間が現れたたとか

バモイドオキ神が出てきたとか、

ドラえもんが出てきたとか、

被害者親族の感情を逆なでするような

自己欺瞞を法廷で言い募る。

 

そして、弁護士は、その自己欺瞞を様々な証拠で弁護する。

 

狂気とか精神病とか理由をつける以前に、

これは、そもそも、自己欺瞞である。

 

何を乱用した自己欺瞞かは、レパートリーはさまざまだが、

要するに、自己欺瞞だ。

 

本人が本気で信じている嘘なので、扱いようがない。

(尊師の教えという自己欺瞞もあるだろう。他人の自己欺瞞を本気で信じる人間もいる。)

 

それは嘘ではなくて、『自己欺瞞』なのである。

天才的にいいわけや正当化がうまくて、逃げ回っている犯罪者もいるのだ。

 

自己欺瞞は、他人が否定しても本人が信じている限りは、解消のしようがない。

 

恐るべきは、

我々だって自己欺瞞の中で生きているに気づいてないことだ。

 

(日本国憲法の理念だって自己欺瞞だ。

GHQの押し付け憲法の理念だって、日本国民は本気で信じることはできる。

実際に、信じてきた。それが戦後70年間の日本の自己欺瞞だ。

敗戦国の悲しい自己欺瞞だ。

誰がそれを責めることができるのだろう。

悲しいかな、人間は人間であるかぎり自己欺瞞から自由になれない。)

 

犯罪者は、自分の不幸な境遇や精神病を理由に情状酌量をもとめるだろう。

これらのもっともらしいいいわけが法廷で弁護人によって主張されるだろう。

 

結局、幼児虐待の犯罪者の良心に、懲罰は与えられない。

だから、彼らは、自己欺瞞を解消しない。

そもそも、自己欺瞞に気づかない。

 

それほど、自己欺瞞は恐ろしい。

 

自己欺瞞が消えないうちは、彼らは、決して人間として再生することがない。

 

ただ、自己欺瞞の強い、引きこもりの青年が

どこかのヨットスクールでスパルタ訓練を受けて

死にかければ、自己欺瞞に気がつくかもしれない。

(あるいは海に落ちて死ぬかもしれない。)

 

キリスト教に改宗すれば、自己欺瞞に気づくかもしれない。

 

古書店の張り紙につられてイスラム国に参加すれば

自己欺瞞に気づくかもしれない。

 

ただ、自己欺瞞に気づいたとしても、その実態は、

一つの自己欺瞞が、別の自己欺瞞にすり替わっただけかもしれない。

 

人間が再生したわけではない。

自己欺瞞を繰り返しているだけだ。

 

自己欺瞞を繰り返すバイキン人間がこの世にはうようよいる。

村上春樹さんも、『カラマーゾフの兄弟』を5回も読んで

自己欺瞞の怪物であるノルウェイの森のレイコを創作した。

 

国家は、犯罪者の自己欺瞞を裁かない。

なぜならば、国家には人間の自己欺瞞を裁く権利がないからだ。

国家が裁くのは、立証された罪だけだ。

 

国家は、良心の自由を尊重するから、人間の良心(あるいは自己欺瞞)を裁かないのである。

近代社会は、人間の信教の自由を保証している。何を拝もうが勝手である。

すなわち、自己欺瞞の自由を認めている。

(それがウェストファリア・システムだ。)

 

この自己欺瞞がつづくかぎり、幼児虐待はなくならない。

そうイワンは考えている。

 

罪のない幼児が、毎年何千人と惨たらしく殺され続ける。

 

そして、幼児虐待の犯罪者は、残念ながら、決して更正することはない。

 

それなのに、キリストは神で在り続ける。

 

しかし、さらに残念なことに、

自己欺瞞という一点で、幼児虐待の犯罪者と

キリストという平行線は交わるだろう。

 

犯罪者は、キリスト教に改宗するかもしれない。

キリストを乱用し、良心の呵責から形だけは懺悔する。

(それを拒んだのがカミュの『異邦人』のムルソーだ。)

 

それによってキリスト教の上では贖罪する。

 

しかし、それも結局は、自己欺瞞にすぎないのだ、とイワンは考える

 

だから、イワンは激怒するのだ。

 

こんなふざけた自己欺瞞を贖罪としてうけいれる世界は耐え難い、と。

神は認めても、神の創造した世界は認めない、と。

 

だから、彼はこの世の国家がすべて教会になればいいと主張する。

 

(それは、ウェストファリア・システムの否定だ。)

 

この現実社会が、そのまま教会になれば、キリストはいらない。

 

そもそも人間は、キリストの愛を自己欺瞞のために乱用しすぎてきた。

 

なぜなら、キリストの隣人愛は人間には難しすぎるからだ。

 

隣人愛は、反逆者で奴隷たる人間にとっては奇蹟だ。

 

実現不可能だ。

 

人間の本性が自己欺瞞である限り、隣人愛も自己欺瞞に堕す。

(キルケゴールは「自己欺瞞」を「死に至る病=絶望」と名付けた。)

 

人間は人間として、更正すればいい。

そして、更生できない人間は、異端審問で火炙りしすればいい。

キリストがいなくても、人間は更正できる。

 

キリストの存在は迷惑だ。

 

キリストを神として認めても、その存在は目障りなのだ。

キリストのいない教会では、自己欺瞞する者は、異端として火炙りにされる。

 

人間の良心は、常に試される。良心のないケダモノは、この世に居場所がない。

教会が国家にとって変わり、恐怖と暴力によって人間を支配される。

 

人間は自己欺瞞のケダモノである。

だからケダモノは鞭で跪かせるべし。

 

それが、大審問官の結論だった。

 

そして、自己欺瞞のケダモノとしての人間をを上から管理するというのが

イワンのおそるべき思想の核心であった。

 

この政治的理念も、自己欺瞞に過ぎないことに、

彼はうすうす気づいている。

 

だから詩劇『大審問官』の結末部の

大審問官への、キリストの無言のキスという結末を書きあぐねたのだが……

 

 アリョーシャは立ち上がり、兄に歩み寄ると、

無言のままでそっと兄の唇にキスした。

 

「盗作だぞ!」

 

突然なにやら歓喜に移行しながら、イワンが叫んだ。

 

「俺の詩から剽窃したな! それにしても、ありがとう。」

 

(新潮文庫 上巻 P149)

 

 

(終わり)

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