トルストイ『アンナ・カレーニナ 第三編~第五編』読書会(2019 7 26)のもよう

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2019.7.26に行った

トルストイの『アンナ・カレーニナ 第三編~第五編』読書会のもようです。

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私も書きました。

 『お互いの痛みが、それぞれの痛み』

 

もし幼い子供や台所女中に、彼(引用者注 ミハイロフ)の見たのと同じものが啓示されたなら、彼らもまた自分の目に映ったものの真の姿をちゃんと表して見せるにちがいない。ところが、どんなに経験に富んだ巧妙な技巧派の画家でも、描くべき内容の限界があらかじめ啓示されない以上、単にその機械的な能力だけでは、なにひとつ描くことはできないにちがいない。(第五編 11章)

 

アンナの肖像画を描いてもらうため、ミハイロフという画家を訪ねる。ミハイロフには技術はあるが、内面的な価値を表現できない。ゴレニーシチョフによれば、ミハイロフは、生まれながらの自由主義者であり、『道徳や宗教の掟があったということも、権威というものがあったということも、まったく知らずに成長して、いきなりいっさいのものを否定するという観念の中で成長した、いわば野蛮人』なのである。

まるっきり教養のない自由主義者。これは『カラマーゾフの兄弟』で言えば、イワンであり、『悪霊』でいえば、ピョートルやスタヴローギンである。機械的な合理主義だけで社会を変革できると思い上がっている連中である。リョーヴィンも、ある部分は、同じような教養のない自由主義者なのだが、そういう自己欺瞞を克服したくて、苦悩している。その苦悩がキチイとの関係に凝縮されている。

新婚のリョーヴィンはどこまでが自分で、どこからが自分かわからなくなった。妻キチイに腹をたてることは自分に腹をたてることであり、何かのはずみに自分で自分を打ってしまい、誰に腹をたてるわけにもいかず、痛みをこらえなければならないのに似ていた。(第五編 14章)

ミハイロフが描いたアンナの肖像には、ヴロンスキーの知らないアンナの精神的な美しさが表現されていた。ヴロンスキーは、そのことに傷つき、絵を描くことが嫌になってしまった。ヴロンスキーの描いたアンナの肖像画は、悲しいことに、彼がアンナに通じていない部分が、表現されてしまっている。お互いの痛みが、それぞれの痛みでしかないという教養のない自由主義者の孤独が、肖像画によって暴露されたのだ。

先の参院選中に、夜遅く帰宅した安倍首相が飼っているメダカに餌を与え、気分転換をしているニュース映像が何度も流れていた。昭恵夫人の握ったおにぎりでも夜食に食べて、選挙戦を夫婦で戦っています、という演出をするのが保守層には受けが良い気がするが、昭恵夫人が映っただけで、マイナスイメージなのか、そういうシーンはなかった。傍目には、どういう夫婦関係なのか、よくわからない。つながっていないとすれば、自由主義者の夫婦なのかもしれない。

(おわり)

読書会の模様です。

 

  • 2019 12.11
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