
2019.7.19に行った志賀直哉『城の崎にて』読書会のもようです。
私も書きました。
『矛盾と直観のなかの実存』
「この会の四衆、一時に悉(ことごと)く見る。彼(かしこ)に此土を見ること、亦復是(またまたかく)の如し。」
と。この会の四衆とは、阿難等の会衆である。それが今釈尊の神力で浄土を見せられたが、その時、彼土一切の菩薩・声聞・天人も亦此土の人々を見たのである。即ち、こちらが向こうに映り、向こうがこちらに映ったのである。この相互映発の論理が否定即肯定・肯定即否定である。浄土は時間的に死後に往くべきではなく、また空間的に西方に遠く隔てて旅すべきではないのである。自分がこの筆を動かし、この文を章するこの時ここで、浄土に往還しているのである。この筆は薄暗き手中に握られているのではなく、浄土からの直接の光明に照らし出されて、その光の跡をつけているのである。(鈴木大拙 『浄土系思想論』 岩波文庫P.62)
桑の葉が、風もないのを揺れているのを感じるシーンがある。『何かでこういう場合を自分はもっと知っていたと思った』この不思議な一文は、何を指しているのか?
『城の崎にて』は心境小説だと言われる。心境小説は、『観想』であると、私は思う。『観想』とは、「宗教において,生成消滅するもろもろの事象の背後にひそむ超感覚的,超越的存在を直観すること、あるいは神的存在と合一することをいう。(コトバンク)』である。「心が浄土に遊ぶ」という静謐な心境は、そのまま観想である。
志賀先生の御自分の心境を描いているのだが、この心境は、何かの機縁によって直観されたものだ。風もないのに、桑の葉が揺れていて、近づいてよく見れば、動いていたと思われた桑の葉は、止まっている。だが、逆に、今度は、風は吹いている。そして、その桑の葉は止まったままである。否定即肯定・肯定即否定。矛盾した現象を直観して、悟ること。志賀先生は、なにかを直観した。直観を頼りに、志賀先生は筆を進めている。浄土からの光に跡をつけているみたいに。
『生きている事と死んで了っている事は、それは両極ではなかった。それ程に差はないような気がした。』
浄土も死も、現実世界のすぐ傍にあるのかもしれない。静かさのなかで、生と死の矛盾は矛盾のままに、あるがままに、直観されていくのかもしれない。その直観も、他人からすれば、錯覚かもしれない。直観を、信じるか信じないかはあなた次第。自分次第。イモリが死んで、偶然に死ななかった自分が、今ここに存在する。生きているのが、錯覚でないと信じられるのは、自分の直観が働いているからで、それがまさに生きていること、そのものなのかもしれない。
(おわり)
読書会の模様です。