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2019.1.11に行った中島敦『山月記』読書会のもようです。
私は書きました。
『欠けるところ』の限界効率(marginal efficiency)
しかし、袁傪は感嘆しながらも漠然と次のように感じていた。成程、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処か(非常に微妙な点に於て)欠けるところがあるのではないか、と。
彼の詩において『欠けるところ』とは、いったい何なのか?
「虎になって人間性を失いかけたときに、初めて絞り出した声に慟哭の調子があり、その調子の中にあるポエジーこそが、残念ながら人間だった頃の李徴の詩には決定的に欠けていたところのものだ」
こういう回答になるかもしれない。だが、このような解釈も、現代では平凡だ。
iPhoneXRが売れなくて、アップルの株価が下がり2019年1-3月期は10%減産すると日経新聞の1/10一面にあった。ジョブズのいた頃は考えられない。ジョブズ亡き後のアップル製品には微妙な点において、なにか欠けている。ジョブズは『欠けるところ』をうまく隠して、しっぽを掴ませなかった。
元旦に明治神宮の参拝客の列に軽自動車で突っ込んで、高圧洗浄機で灯油をまいて火をつけようとした21歳の無職男が逮捕された。オウム事件の死刑執行に抗議してのテロだという。背後関係があるのかわからないが、もしかすると、自分の中の虎を飼い太らせて、ああなったのかもしれない。虎としての意識に酔った犯行であり、臆病な自尊心、尊大な羞恥心の暴走である。動機の不分明と言い訳の下手くそさと計画の唐突な変更(原宿の竹下通りを暴走)とにおいて『欠けているところ』を感じさせる事件であるように感じる。この手の欠けたる虎の起こす事件は、後を絶たない。
現代美術の先駆けである、デュシャンは代表作『泉』において、『欠けるところ』を逆手に取って、そのまま作品の核心に据えるいう荒業を敢行した。レディメイドである。
私は、李徴がレディメイドの和式便器に変身し、その便器の真中に尊大な羞恥心をおき、最後に丘の上でもって擬音装置『音姫』の大きな水音でもって、その羞恥心を流したふりをするというパロディを構想した。
和式便器となった李徴が、延々と叢の中から、自分がこのようになった理由を友に訴え、デュシャンに嫉妬する。(Shitだけに)そんな現代版の『山月記』を構想しながら私は、自分の『欠けるところ』の限界効率を計算していた。
(おわり)
読書会の模様です。