2018.6.1に行ったオルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』読書会のもようです。
私も書きました。
「現象の没落としてのユートピア」
『すばらしい新世界』とは、人間から意志を奪い去り、有機野菜を育てるように人間を思いのままに培養する世界である。
意志は死によって知性の喪失を蒙る。意志はここで没落してゆく現象の核心であり、それは物自体として不滅のものである。
ショウペンハウエル『自殺について』 岩波文庫 P.24
野菜は腐っても知性の喪失は被らない。しかし、人間は、死によって、この世に知性を手放していく。ただ、著作などによって、この世に知性を残すことはできる。ネズミにかじられたシェイクスピア全集のように、後世に残されていく知性がある。
『すばらしい新世界』は、ぺらっぺらの『おもちゃの王国』に似ている。ソーマ・フリーセックス・感覚映画という、アトラクションをメインとした安物のネバーランドであり、現象の没落だけが、延々と続くディストピアである。
ここでは人間は、適度に労働して、いまある社会秩序を維持し、余った時間を消費や快楽の追求に充て、30歳位の肉体的な条件で健康を維持しながら、60歳でパタリと死ぬ。
こんなにせものの世界が、なぜ存在しなければならないのか?
滅んだほうがむしろ、いっそ幸福なのではないか?
この問の答えは、ムスタファだけが知っている。
世界の核心は、ジョンやリンダが住んでいた野人保護区域にあるのだ。
『すばらしい新世界』はどこまでも現状維持のコントロールされた世界である。コントロールというのは、コントロールを失うリスクを抱えている。条件というのは、無条件を前提として、はじめて意味を持つ。
ショウペンハウエルが師と仰いだ哲学者カントがテーマにしたとおり、『自由・魂の不死(永遠)・神』という3つのコンセプトは、『無条件』に関わっている。それは、意志の核心だ。
意志の核心は、野人保護区域に保存され、現象の没落は、『すばらしい新世界』が担当している。
無条件の不幸な世界と、条件づけされたすばらしい新世界。
この分断された2つの世界の境界線の上に、現実存在(実存)としてのこの私がいる。
(おわり)
読書会の模様です。