石原慎太郎『太陽の季節』読書会のもよう(2019 8 23)

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2019.8.23に行った石原慎太郎『太陽の季節』読書会のもようです。

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私も書きました。

『神的暴力の季節』

自分の直感する正義によって、支配(ルール)する。その手段が、暴力。そして、暴力の正当化する。なぜ竜哉は、暴力に魅せられ、それを正当化するのか? 彼には彼なりの『正義と法』があるように思う。

竜哉が、陰茎で障子を破るのは、それが彼にとっての正義であり、新たな立法だからだ。この挿話は、機織り小屋に、皮を剥いだ馬を投げ込んで、びっくりした機織り女が隠部に、梭(機織の横糸を通す道具)を刺して、死んでしまった須佐之男の神話を彷彿とさせる。

須佐之男は海の神である。英子が高天原を統治する天照大御神だとすれば、彼女をヨットに誘い、関係持った上で彼女を虐待していく竜哉の行動は、理由がある。天照大御神と、須佐之男命の姉弟の対立を、そのまま踏襲している。

須佐之男は、嵐を呼ぶ立法者である。彼を邪魔する者は、彼の正義によって罰せられる。

 

どこまでも暴力的で独善的な竜哉は須佐之男であり、亡くなった英子は、天照大御神である。日本の神話の暴力が、神話的暴力が、あふれている。須佐之男の常軌を逸した行動、残忍なまでの暴力、英子をわざわざ困らせる狼藉ぶり。それが、極めて典型的な日本の情緒であり、日本神話の美学が物語の根底にある。結局、中絶に失敗して、腹膜炎で死んだ英子は、須佐之男の狼藉に気を病んで、天の岩戸に籠もった天照大御神になぞらえられる。

「何故貴方は、もっと素直に愛することが出来ないの」

純粋な正義を回復するための乱暴狼藉は、高天原の奪還のための虚しい努力のようにみえる。竜哉は、須佐之男に代わって、敗戦後の日本社会に神的暴力をくわえるのだ。戦後社会の倫理や道徳の欺瞞に抵抗するのは、それらが、偽物だからだ。偽物を神に代わって、徹底的に破壊しなければ、虚無感を乗り越えて、『素直に愛すること』はできはしない

『太陽の季節』とは逆説的なタイトルである。戦後秩序への反逆であり、須佐之男の神的な暴力の肯定を描いている。

正義のための立法である。その後の石原先生は、政治家として日本の正義を語り、立法者になったのだが、戦後秩序をくつがえすような本格的な神的暴力は、現実の政治においては発揮する機会に恵まれなかった。太陽は隠れたままだった。残念である。

(おわり)

読書会の模様です。

 

  • 2020 01.20
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