夏目漱石『門』読書会のもよう(2017.12.29)

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2017.12.29に行った夏目漱石『門』読書会のもようです。

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私も書きました。

「互いの底まで喰い合う」共依存状態

宗助と御米の間に子供がいたら、彼らは「互いの底まで喰い合」わず済んだのだろうか? 大学時代の同級生で、御米の婚約者であった安井を裏切ったために、宗助御米夫妻は、徳義上の罪を背負って生きていた。そして、吹き溜まりのような、崖の下の家にたどりついた。

 

 交合は主として男子の仕事である。妊娠は専ら女性だけのことである。子供は父から意志と性格とを、母からは知性を、うけつぐ。知性は救済の原理であり、意志は束縛の原理である。(ショウペンハウエル『自殺について』)

 

宗助は、「生きんとする意志」を放棄している。「我々は、そんな好い事を予期する権利のない人間じゃないか」と自らに言い聞かせ、逼塞している。御米は、そんな宗助を前に、本来は生き生きとしたはずの知性を持て余す。たとえば、「論語に書いてあって?」と答えるセンスは、読んでいる私にはコケティッシュに感じたが、宗助相手には、空回りして傷ましい。夫婦は、自分たちの掘った過去の落とし穴から抜けだせないでいる。

『結核性の恐ろしいもの』が夫婦を束縛している。「互いの底まで喰い合う」共依存状態が、この夫婦をずるずると没落させていく。

安井に会いたくないだけで、宗助は、参禅する。門をくぐってみたものの、『父母未生以前本来の面目』の境地には想像も及ばない。

この世の因果を一気に飛び越えて、生まれる以前の人間の根源的な状態を目指すとすれば、宗助に残された最後の手段は、限られている。

「敲いても駄目だ、独りで開けて入れ」

御米を捨てて、世間を捨てて、出家すれば、生きながらに根源的状態に肉薄できるだろう。一方、御米の知性は、酒井抱一の屏風を機縁にして、大家である坂井、彼の弟の友人として現れた安井、彼から逃れるための参禅という一連の現象の系列をもたらした。

「そうあった」の徳義上の罪を超えて、「そう欲する」意志を見せなければ、生き抜いてはいけない。

夫婦は、共依存から自由を失い、ますます老いて、ますます、はかなくなるだけだ。

(おわり)

読書会の模様です。

 

  • 2018 01.27
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