
2018.1.26に行った
イーヴリン・ウォー『回想のブライズヘッド』読書会のもようです。
私も書きました。
『盥(たらい)に星が映るような零落の生活』
折口信夫の『反省の文学源氏物語』にこういう一説がある。
人によっては、光源氏を非常に不道徳な人間だと言うけれども、それは間違いである。人間は常に神に近づこうとして、様々な修行の過程を踏んでいるのであって、其ためには其過程過程が、省みる毎に、あやまちと見られるのである。始めから完全な人間ならば、其生活に向上のきざみはないが、普通の人間は、過ちを犯した事に対して厳しく反省して、次第に立派な人格を築いて来るのである。光源氏にはいろんな失策があるけれども、常に神に近づこうとする心は失っていない。
光源氏が、宿命に翻弄されて、さまざまな女性と関係をもつのは、一段回ずつ神の領域を踏んでいるのだという。源氏は『蓬生』で、庭に蓬が生い茂り、盥に星が映るような零落の生活をして、世間から忘れ去られていた末摘花が、自分をひとすじに信じていてくれたことに感動する。
「こういう所には金の壺を埋めておきたくなる」と、セバスチャンはいった。「ぼくは自分が幸福な気持になったところにはみんな金の壺を埋めておいて、いまに年とって醜いみじめな老人になったら、もどってきてそれを掘り出して、思い出にふけりたいと思うんだ」 上巻 P.46
神がいるとしたら、気まぐれに人間を作って、遊んでいるうちに、そのまま忘れてしまったのかもしれない。残された人間は、自分が神と遊んでもらったときに感じた小さな幸せを金の壺に入れて埋めておかないと、誰にも相手にされなくなってからさみしくて死んでしまう。たまに金の壺を堀かえして大切なものを思い出すのだ。セバスチャンに忘れられたアロイシアスも、源氏に忘れ去られていた末摘花も、金の壺を守る天使のようだ。あやまちだらけの私たちの人生にとって、大切なものを守ってくれた天使。
人は罪深く、あやまちは避けがたい。苦しみ原因は人からは測り難いから救ってやることもできない。苦しみを抱えながら生きるセバスチャンは、光源氏と似た軌跡を描いて、神に近づいている。
(おわり)
読書会の模様です。