
2017.12.22の行ったチャールズ・ディケンズ『クリスマス・キャロル』
読書会もようです。
私も書きました。
「おさなごをとりて、彼らの中に置く」
人間は、時間と空間という鎖に縛られている。マーレイの幽霊が、スクルージを『世俗一点張りの男よ!』と哀れんだのは、現世の時間と空間の鎖に縛られた考え方しかできない、頭の硬さを非難したのである。スクルージは、自己正当化という鎖によって、己の縛って生き抜いてきた。「これは生きている時に自分で作った鎖なんだ。それに今つながれているんだ」とマーレイはいう。自己正当化の鎖は、死後もその重みを増していく。
「人間よ、もしお前の心が石でなく人間なら、余計とは何であるか、どこに余計なるものがあるのかをはっきりわきまえるまでは、この悪い文句をさしひかえるがよい」
愛は、頭の中にしか存在しないが、それが人間の世界そのものを支えている。スクルージのように、役に立たないものは余計だという、徹底した合理主義は、やがて人類を破滅させてしまう。
ボブの家族のXmasケーキであるプディングは、量からすれば、この家族にはやや足りなかったかもしれない。足の悪いティム坊がいるから足りなかったのかもしれない。しかし、余計者のティム坊がいなくなれば、プディングの分前が、ちょうど間に合って合理的であると、ふと感じてしまうとしたら、残酷なことだ。この残酷こそが貧困の悲しさだ。
プディングを足りなくしているのは、本当は誰なのだ?
「どんな人間を生かし、どんな人間を死なせるかお前に決められると言うのか。神の眼にはこの貧しい男の子供何百万人よりお前のような人間こそ生きていく値打ちもなければ、生かしておくにはふさわしくもないのだぞ。おお、神様! 草の上の虫けらが、塵の中で空腹にうごめく同胞たちの間に生命が多すぎるなどとよくも言えたものだ!」
世俗の富を独占するものは、同時に貧困を生み出している。プディングが足りないのは、スクルージの頭に中に愛がないからである。ティム坊が、貧しさで死ねば、やがてスクルージの生き抜いた世俗そのものが無の中に消えていく。
愛のなかこそに、人間の生きるべき世界が立ち現れてくる。
(おわり)
読書会の模様です。