
2017.11.3に行った夏目漱石『それから』読書会のもようです。
私も書きました。
「情に棹させば」
代助は、自分の必然性については、自覚している。親の仕送りで働かずに一軒家を構えて暮らしていることについて、どういいわけしているかというと、『親父も兄貴も、支配階級にいて、濡れ手に粟で儲けているだけで、決して実力で儲けているのではない。』ということだ。うしろめたさはない。一方、世間では実力がモノを言うと信じていた平岡は、大学卒業後に銀行員となるが、実力を活かしきれず、腐ってしまう。
代助は、平岡が世間で通用しない理由を知らない。代助の兄と平岡は、どちらが実力のある人物であるか、それは、比べようがないから判別がつかないが、少なくとも両者の間に「必然性」の差がある。持つものと持たざるものとの。平岡は、実力があっても、資産も縁故もない。代助の兄は、資産と縁故を持っている。どうしたって、代助の兄に軍配が上がる。
ここに、不公平がある。実力だけが世間を動かしているわけではない。金持ちの家に生まれれば、資産があるから一生金持ちだ。縁故がある家に生まれれば、それだけチャンスに恵まれる。必然性に気がつくというのは、最初から与えられている不公平さを自覚することだ。
生来の特権によって恩恵を受けている代助が、生来の不公平によって理不尽な思いをして、三千代に辛くあたる平岡に同情するというのは、矛盾した話だ。そして、三千代を譲ってくれと頼むに至っては、さらなる矛盾である。
カードに裏表があるように、繁栄の裏には貧困があり、支配の裏には隷属がある。
不公平の犠牲になっている三千代に同情するのは、偽善的な態度だ。代助は自分が働かなくても生きていける客観的な条件を、十分検討していない。自力では、彼女を救えないくせに、なぜ、彼女の人生に深く干渉するのだ。
恋心に突き動かされてとか、焼けぼっくいに火がついてとか、代助の出来心を責めることはできよう。
三千代の駆け引きも、きわどい。
ハムレットではないが、『弱き者よ 汝の名は女なり』 心変わりは、誰のせいだ。
情に棹させば流される。
(おわり)
読書会の音声です。