2017.6.29に行ったアルベール・カミュ『異邦人』読書会のもようです。
私も書きました。
『世界の優しい無関心』
アラビア人に一発目と二発目に間を置いて、残りの四発を撃ち込んだことは、明確な殺意があると思われるが、それでも、無期懲役がいいところで、情状酌量の余地がある。
では、なぜ、ムルソーは死刑になったのか?
ここが、この作品のテーマである。
第二部の裁判では、ムルソーの『精神の自由』が裁かれている。
日本国憲法第19条には『思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。』とある。
(2012年の自民党の改憲草案では『思想及び良心の自由は、保障する。』になっている)
『思想及び良心の自由』とは、『精神の自由』である。国家権力は国民の『精神の自由』を侵してはならないというのが、近代国家のルールだ。共謀罪の議論もここが焦点だった。死刑制度の問題もここにある。
(国家権力がなぜ、我々の精神の自由を保障できるのだろうか?)
ムルソーは、精神の自由を守るために、御用司祭を追い払った。
しかし、この小説の世界が、『1984年』と同様の超管理社会であり、御用司祭が、オブライエンだったらどうだろう。ムルソーは、愛情省101号室で、『マリイになら何をしても構わない!』と叫ぶまで、拷問されつづけるだろうか? 残念ながら、それはない。皮肉なことに、ムルソーはマリイを愛していないので、この拷問の意味はない。
むしろ、拷問されているのは、マリイである。
「あなたがでたら、結婚しましょうね!」といってくれたマリイこそが、ムルソーの精神の自由のため拷問にあっている。
遠藤周作の『沈黙』の『穴吊りの刑』さながらだ。穴吊りにあっているのは、マリイである。この御用司祭は、ロドリゴに棄教を迫るフェレイラのようである。
特赦を餌に改宗を迫る御用司祭は、文字通り『権力の司祭』だ。
ムルソーを死刑から救えなかったマリイは、この一件で十分、傷ついた。
これから人生で、誰も人を愛せなくなってしまったかもしれない。
ムルソーがさっさと神を認めれば、マリイは救われるのに……。
彼は、『精神の自由』を守るため、マリイに無関心なのだ。
『世界の優しい無関心』とは、このことだ。
(おわり)
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