
2017.10.27に行ったゲーテ『親和力』読書会のもようです。
私も書きました。
「ゲーテはデーモンを描いた」
ゲーテの『親和力』を読んで伊勢物語の 6 段『芥川』を思い出した。
昔、男ありけり。女のえ得まじかりけるを、年を経て呼ばひわたりけるを、からうじて盗み出でて、いと暗きに来けり。芥 川といふ川を率て行きければ、草の上に置きたりける露を、「かれは何ぞ」となむ男に問ひける。行く先多く、夜もふけに ければ、鬼ある所とも知らで、神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる蔵に、女をば奥に押し入れて、 男、弓、やなぐひを負ひて戸口にをり。はや夜も明けなむと思ひつつゐたりけるに、鬼、はや一口に食ひてけり。「あなや」 と言ひけれど、神鳴る騒ぎに、え聞かざりけり。
オッティーリエが自分自身の自由を手にしようとすると、どこからともなく現れる巨大な『自然の力(デーモン)』に翻弄さ れてしまう。
彼女の果敢なさが、鬼に喰われた女の面影に重なる。
彼女もやっぱり鬼に喰われたのだ。
人をひきつけ合う自然の力が、親和力なら、人を引き離す暴力も、自然の力である。
遊苑を造るというのは、創造主に代わって、世界を創造するのに似ている。
人間は、心の奥底の無意識に繋がって生きているのではないか。人は、親和力を活かしながら、仕事と愛情によって つながり、お互いを高め合いながら、この世界を作り直そうとする。そして、いつか神に似た叡智的存在に成りおおせる ことを望む。
人間の意志が、世界を造り直すかにみえるころ、親和力が、人間の制御できない自然の力(デーモン)に変貌して、せ っかく造り上げたものを、木っ端微塵に粉砕してしまう。
四人が協力して精魂込めた遊苑が、墓石を動かすことから始まって、動かした墓石への埋葬に終わる果敢なさ、造り 上げた人工湖で、赤ちゃんが溺れ死ぬ果敢なさ。
そしてオッティーリエの死の果敢なさ。
白玉か 何ぞと人の 問ひしとき つゆと答へて 消えなましものを
近代とは、人間が自然の創造主として振る舞う時代である。
人間の越権に、怒り狂うデーモンこそ、この物語の真の主人公ではないか?
(おわり)
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