2017.10.20に行ったフランソワーズ・サガン『悲しみよ こんにちは』読書会のもようです。
私も書きました。
「自由ではない愛は無力だ」
〈事実と原因のあいだに、まずはどれほど異質性を見出すことができようと、また、たとえ行動の規範と事物の本質に対する言明とのあいだに大きな隔たりがあろうと、人が人類を愛する力を汲みとれたと感じるのは、つねに人類の発生原理に接してのことである〉(P71)
セシルが、頭を悩ませたベルクソンの一節である。私なりに解説してみたい。
レイモンとアンヌの再婚の事実は、アンヌに原因している。享楽主義者レイモンは、落ちついた中年の生活など本当は望んでいないが、結婚を望むアンヌに言いくるめられてしまった。また、アンヌの行動規範(知的で趣味の良い幸福な家庭生活を維持する規範)とレイモンやセシルの本質(自由を求める性格)には、大きな隔たりがある。
アンヌの愛は、レイモンやセシルを支配し、コントロールしようとする欲望だ、とセシルは感じている。「人類の発生原理」とは、ベルクソンの哲学では〈自由〉である。だから、自由からしか愛の力は生まれない。アンヌの愛は、自由と両立していないので、セシルは、愛の名を借りたアンヌの束縛に反発する。
あの人は、わたしが自分自身を愛せないようにしてしまう。幸福や、愛想のよさや、のんきさに、わたしは生まれつきこんなにも向いているのに、彼女がいると、非難や良心の呵責のなかに落ち込んで、心のうちでしっかり考えることもできなくなり、自分を見失ってしまう。(P.72)
アンヌはセシルを型にはめ、彼女の自己愛や自由を奪おうとしている。
人生を享楽し、自由を追求するのが、この父娘の生き方であり、彼らの生命の根源的な推進力だ。
一方、アンヌは、心の底では自由を恐れている。表面上は、知的で洗練されてはいるが、彼女は、自由から逃げようとしている。この父と娘を制圧して、それを愛だと信じ切っていた。
それを、セシルの生命が拒んだ。
「自由ではない愛は無力だ」という悲しみを描いた小説かもしれない。
おばあちゃんのように走るアンヌ。自由ならば、愛に力があれば、そんな走り方しないのでは。
(おわり)
読書会のもようです。
(おわり)