2017.9.15に行った
イーヴリン・ウォー『回想のブライズヘッド』読書会もようです。
私も書きました。
「理解ある親」をもつ子はたまらない
以前、「「理解ある親」をもつ子はたまらない」という、心理学者の河合隼雄さんのエッセイで読んだ。子供に理解あるふりをする親は、その子供が予想外の行動をした時(例えば性犯罪など)「まったくわけがわからない」と言い訳するためだけにむしろ、理解のあるふりをしているというのである。成長段階で、誰かにぶつからなければ、子供は自己を確立できないそうだが、理解のある親は、暖簾に腕押しといった感じで巧妙に、子供を避ける。結果、ぶつかる対象を見失った子供は、突飛な行動で、親を困らせ、なおかつ、辛辣なかたちで、子供を突き放す。子供は理解あるふりをしていた親をますます深く憎む。
セバスチャンの母、マーチメイン夫人は敬虔なカトリックであるが、彼女のキリスト教徒の関わり合い方こそが、セバスチャンのアルコール依存症の原因であるような気がした。
セバスチャンは、母を憎みながらも、実は自分の中にあるものを憎んでいると、セバスチャンの父の愛人カーラは解説した。
しかし、憎んでいるものがなんなのか? カトリックが常に人間の良心を監視し、魂の服従を求めていることへの憎しみなのか? あるいは、不幸を背負うことこそが、信仰の深さを試すのだという考えを、憎んでいるのか? あるいは、キリスト教には、理解をもつ親のようないやらしさがあり、それを憎んでいるのではないか、などなど考えたが、わからない。
人生は長いので、青春の挫折を経て、なお生きていくとしたら、魂の問題は避けて通れない。そして、魂の問題をキリスト教の中で理解しようとすれば、どうしても自分の罪深さを自覚せざるをえない。
以前、リリー・フランキーさんが等身大の少女の人形を連れて、「笑っていいとも!」のテレホンショッキングに出演していた。会場のお客からは、歓声ではない種類の悲鳴が上がっていた。結局、それが、どういう意図か、最初よくわからなかったが、今思えば、理解あるふりをする世間への憎しみ、そして、自分自身への憎しみと、そして、愛の渇きとを感じる。
(おわり)
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