
2018.2.2に行った
G・ガルシア=マルケス『予告された殺人の記録』読書会のもようです。
私も書きました。
「ビクトリア・グスマンが兎の蔵物を犬に投げた時、すべてがはじまった。それは、まさしく神のお告げだった。」
この村の人達は、心の奥底で、バヤルド・サン・ロマンをよく思っていなかった。政治的には保守的な背景を持つバヤルド一家を、左派のこの村の住人はどこかで恨んでいる。
サンティアゴ・ナサールもアラブ系の移民の成金として、やはりどこかで疎まれていた。
司教が、上陸していれば、殺人は起こらなかっただろう。主権者たる住民の一般意志は、バヤルドとサンティアゴが同時に無くなる偶然を望んでいた。神の意志は、司教が上陸して殺人を止めるか、見過ごして過ぎ去るかのどちらかだ。司教は、この街に寄らなかった。ミサは中止になった。見かけばかりの祝福をして立ち去った。寄らないことで殺人と共同体との間に、黙契が出来上がってしまった。予告された殺人は実行された。誰も止めなかった。誰もが共犯者だった。
アンヘラは、事件の後にバヤルドを深く愛するようになった。『男性は意志の保持者であり女性は、人類の知性の保持者である。』とショウペンハウエルはいうが、自己を見失っていたアンヘラはバヤルドを愛し始めて、初めて自分自身になった不幸な結婚によってはじめて彼女の知性は、いきいきと働きだし、2000通のラブレターとなって結実した。
『女性の本質は献身なのである』『献身において女性は自己自身である。かくてのみ彼女は幸福でありかくてのみ彼女は自分自身である』(キルケゴール『死に至る病』)
アンヘラは誰をかばったのか? 彼女の処女を奪った真犯人は誰か?
サンティアゴの親友だったクリスト・ベドヤがどうも怪しい。次点で、語り手の私も。しかし、アンヘラは、無実のサンティアゴを告発した。
女性が性的被害を告発する「#metto」運動の危うさはここにある。女性の性的被害の証言が政治的謀略に使われると、無実の人間が失脚する可能性がある。立場の弱い女性は深く思い込めば、誰かのために誰かを犠牲にするのも厭わないかもしれない。「名誉と愛は同じものよ」これも、言い訳だ。女性たちの知性に、男性の意志が合わさって、殺人は実行された。神の意志によって正当化され、共同体は持続する。
(おわり)
読書会の模様はこちらです。