中島敦『李陵』読書会のもよう(2017 9 7)

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2017.9.7に行った中島敦『李陵』読書会のもようです。

メルマガ読者さんから頂いた感想文です。

私も書きました。

「李陵には、天命を知ることが与えられていない」

古代中国において、天命は王朝の正統性(legitimacy=レジティマシー)の根拠である。天は、己に代わって、地上を統治するものを探している。天命は下り、前漢第七代皇帝の武帝が誕生した。彼が天の代理人となって、漢は帝国の最盛期を迎えた。いかに、武帝が気まぐれで、ときに、神がかりであろうと、司馬遷が云う通り『なんといっても武帝は大君主である。そのあらゆる欠点にもかかわらず、この君がある限り、漢の天下は微動だもしない』のである。君側の奸が、全躯保妻子(くをまっとうしさいしをたもつ)の臣であり、宮廷が腐敗し、権威主義に陥ろうとも、漢という帝国は、武帝に下された天命によって十全に支えられている。

しかし、李陵は天命を知らなかった。

しかし、天はやっぱり見ていたのだという考えが李陵をいたく打った。見ていないようでいて、やっぱり天は見ている。彼は粛然として懼れた。今でも、己の過去をけっして非なりとは思わないけれども、なおここに蘇武という男があって、無理ではなかったはずの己の過去をも恥ずかしく思わせることを堂々とやってのけ、しかも、その跡が今や天下に顕彰されることになったという事実は、なんとしても李陵にはこたえた。

誰しも我が身が可愛いから、究極的に何処かで、自己正当化や言い訳によって自分をだます。李陵も、どこかで自分が正しいと思いこんでいた。政局を、政治の実体と誤解し、天命の代理人としての武帝を見くびっていた。李陵が、一族の死を憂えるゆえに、祖国を恨み、祖国を捨てたのは、実は彼が、天に見放されていたからだ。蘇武が仰いでいた天を、李陵は見失っていた。それゆえに自己欺瞞にとらわれ、単于に懐柔されてしまった。一方、蘇武は、武帝の崩御にあたって、南の天に号哭し、血を吐いた。その姿を、やはり、天は見ていた。

国を思う李陵が気持ちの底には、国士きどりのナルシシズムがあった。

それが、かの愛国者の弱さだった。

(おわり)

読書会のもようです。

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