2019.9.20に行った泉鏡花『高野聖』読書会のもようです。
私も書きました。
『白桃の花』
伊邪那岐神は神産みの最中に火の神を生んで死んだ伊邪那美神を探しに捜しに黄泉の国を訪れる。変わり果てた伊邪那美の姿を見て、伊邪那岐は逃げ出すが、雷神(いかづちのかみ)や1500名からなる黄泉の軍勢に追いかけられる。黄泉比良坂の坂本で、桃の木を見つけ、そこから桃を三つもいで、追手らに投げつけると、逃げおおせることができた。「汝、吾を助けしが如く、葦原中国(あしはらのなかつくに)に所有(あらゆ)る、うつしき青人草(あおひとくさ)の、」とつぶやいた。
(まあ、女がこんなお転婆をいたしまして、川へ落おっこちたらどうしましょう、川下へ流れて出ましたら、村里の者が何といって見ましょうね。)
(白桃の花だと思います。)とふと心付いて何の気もなしにいうと、顔が合うた。
この女は、黄泉の国で正体のバレていない伊邪那美神のようである。高野聖が、白桃の花のようだと褒めたのが、魔除けになったのか。桃を投げつけて助かった伊邪那岐神のようであった。古来、桃には厄払いや魔除けの効果があるという。
私は桃の甘ったるさが苦手なので、桃には手をつけず、冷やしトマトにアジシオをふってもっぱら食べている。トマトを食べると口内炎の予防になる。
黄泉の国は死者の世界である。この孤家住むものもそれを取り巻くケダモノたちも死者のようである。高野聖は、黄泉の国と世俗の間に迷い込んだが、妄執を払ってなんとか地獄の淵から生還したという話だ。
大雨と洪水という災害による死、医療ミスによって不具になった少年、世代わり、代替わりの前触れのように現れた優しき美少女は、手かざしで病を癒す。妄執によって馬や、猿や、コウモリに変えられた助平な男たち。すみずみまで神話や、仏教説話のインスピレーションに満ちており、ネタフリも秀逸で、残酷でありながら甘美な物語だ。
現代にも『高野聖』に描かれているような障害、病、差別、被災、性暴力、児童虐待などなどが、毎日ニュースで流れてくる。医学や厚生福祉の発達での宗教による救済は、非合理なものと軽視されているが、陀羅尼を一心に唱え、妄念と闘う高野聖の心がけこそが、すんでのところで、彼自身を救ったという仏教的因果には、リアリティーがあった。
(おわり)
読書会の模様です。