2018.7.27に行った村上春樹さんの『国境の南 太陽の西』読書会もようです。
私も書きました。
『ふるえながらのぼっていく』
今年の夏も、鮎が故郷の川を遡っている。岐阜県のある川では、水不足で遡上する鮎が溢れかえっているというニュースをネットで見た。中島みゆきの『ファイト』の歌詞ではないが、魚たちは生まれた川を遡る。子孫を残すための本能なのだろう。フロイトは『快感原則の彼岸』という論文で、その本能は、エロス(性本能)とタナトス(死の欲動)であると論じている。産卵と射精の中で、遡った魚たちは役目を終えて、川底に沈んでいく。写真家アラーキーは、被写体からエロトス【エロスとタナトスをあわせた造語】を浮かび上がらせるのを表現のテーマにしているそうだ。
島本さんと始が石川県のある川を訪れる。その源流のような川で、島本さんは散骨する。彼女の亡くなった子供の骨だ。この話は、川に遡るのを忘れてしまった始に、イズミと島本さんが交互に現れて、一緒に川を遡るのを促すのがテーマのように思えた。
一人っ子で、およそ協調性のない主人公である。学生時代を政治の季節の中で過ごし、就職して、都会生活の中で埋もれていたのだが、妻、有紀子との出会いを機に、義父から出資してもらいジャスバーの経営者として成功する。
時代背景と言えば、学生運動が終わり、ニクソンが訪中して、冷戦構造が自由主義陣営の勝利に傾く流れが、劇的に加速した時代だ。始が37歳になった1988年には、日本は、バブル真っ只中である。マルクスの『賃労働と資本』ではないが資本の価値の自己増殖によって、始も豊かさを享受する。一方、親が熱心な共産党員だったイズミは、そのこととはたぶん関係ないが、始と従姉妹の関係で傷つき、精神を病んで、不遇の人生を送っている。
イズミが始の何に傷ついたのかと言えば、始の中にある無自覚な悪に傷ついたのだと思う。これが一体何なのか? この後に書かれた『ねじまき鳥クロニクル』では、その悪が、ノモンハン事件にまで遡る歴史的な由来をもって究明されている。
歴史を遡ることも、エロスとタナトスの本能かもしれない。何かのきっかけで、存在困難をおぼえれば、私たちは私たちの由来に立ち返るのかもしれない。
(おわり)