2017.7.6に行ったフランツ・カフカ『変身』読書会のもようです。
私も書きました。
『毒虫現象とホロコースト』
事業に失敗して、父親は、ボケたふりをし、母親は喘息を装い、妹は女子高生という身分に甘え、それぞれ無力感をまるだしにして生きていた。
グレゴールがクソ真面目で責任感の強い性格であるのをいいことに、家族は、一切を彼の気合いにおまかせしたのだ。彼も、ヒロイズムから、五年間も、このいびつな共依存状態に耐えた。一家の家長に昇格したのがまんざらでもなかったのか、必要以上にイキった。
しかし、残念なことに、彼の熱心と誠意をしても、傾くザムザ家の家運を扶翼できなかった。
グレゴールは、自由を奪われた営業マンだった。歩合給なので数字に追われ、雇用主に借金があるせいか、会社では、着服や不正を疑われ、監視される奴隷のような身であった。
大黒柱としての矜持、逃げ場のない仕事の重圧と、将来への不安、「俺の青春を返せ! ふざけるな!」と感じても当然の怒りなど、モロモロを、自己欺瞞によってねじ伏せた結果、彼の実存には、質的跳躍が巻き起こった。
あろうことか、彼は、気色悪い毒虫に、変身してしまったのだ。
『健康な人は誰でも、多少とも、愛する者の死を期待するものだ』とは、『異邦人』のムルソーの恐るべき格言である。
ザムザ一家は、変身する前から、ずっとグレゴールの死を期待していたフシがある。サドマゾ的共依存関係によって彼の自由を奪うことで、間接的に毒虫(これ)への変身を促していた。
皮肉なことに、毒虫となったグレゴールは、自分には不安を感じていない。
なぜなら不安は、人間のものであり、毒虫のものではないから。
彼は、徐々に、人間としての尊厳を失い、己に満ち足りて、天井を這いまわった。
社会も、家族も、そして、悲しいことに、グレゴール自身さえも、彼の自由を食い尽くしたのだ。人間の実存の変身の果てにある毒虫の死は、人間の死ではない。ゆえに、毒虫には墓もなく、その死を前にして、人間には罪悪感もわかない。
人間を毒虫(これ)に没落させる現象の量的飛躍にこそ、ホロコーストの核心がある。
(おわり)
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