発売から1ヶ月経ったということで村上春樹さんの最新長編小説
『騎士団長殺し』読書会を再度行いました。
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私も書きました。
『どろんとした、奥が見えない目』
僕ははじめて河合先生にお目にかかりました。(中略)初対面の印象は「ずいぶん無口で暗い感じの人だな」というものでした。いちばんびっくりしたのは、その目でした。目が据わっているというか、なんとなくどろんとしているんです。奥が見えない。(中略)何かしら重い、含みのある目です。(中略)二度目にお目にかかったとき、すべて一変していました。(中略)その目には、まるで子供の目のようにきれいに澄んだ奥行きがありました。(中略)それで僕にも「ああ、昨日はこの人は意識的に、自分を受動態勢に置いていたんだな」とわかったわけです。おそらく自分を殺してというか、自分を無に近づけて、相手の「ありよう」を少しでも自然に、いわばテキストとしてあるがままに吸い込もうとしていたんだなと。
『職業としての小説家』P300~301
肖像画を描くのを生業としている主人公の「私」は、肖像画の依頼人と面談して『クライアントに対して少しなりとも親愛の情を持つ』という作業に努める。まずは、対象を受け入れるという下準備がなくして、クライアントの肖像画に取り掛かかるのは、暗闇を手探りで歩くようなものだろう。クライアントをそのまま人格として受け入れられるか、否かが、肖像画の仕上がりに大きく影響するはずだ。対象を受け入れる努力は、大切だ。たとえば、苦手なピーマンを食べなければならないとなれば、みじん切りにして、他の食材に混ぜて炒めるなど工夫するだろう。嫌いなものを、いかにも、美味しそうに食べているように受け入れているように演技するより、美味しいと思える調理法を探して、どうにか、受け入れるほうが、苦痛は少ない。
初対面では、まず私を殺して、相手を一度を受け入れないといけない。
どろんとした、奥が見えない目で、相手を受容するというのは、まずは相手に同化する作業みたいなものなのだろう。
本やテキストを読むというのも、また、まずは受け入れるという下準備が大切だ。
(おわり)
読書会のもようです。
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