
2017.12.1に行ったフォークナー『熊』読書会のもようです。
私も書きました。
「私たちの国も敗けたのであり、私も敗戦の味を知るものです……」
両者が時間のはじまる以前の暗い影の中にいるのだ、死を越えた存在である大熊と不死の存在を少し知りだした彼とがいるのだ。
この意志は、時間がはじまる以前の暗い影の中に、力(スカラー)としてあった。
この森は、意志の表象としてある。誰の意志だろう?
オールド・ベンの意志、ライオンの意志、サム・ファーザーズの意志、ブーン・ホガンベックの意志、先住民のインディアンの意志、そして、サムからイニシエーションを受けた、少年の意志。
彼らの意志が、ひとまとめになって、偶然にもこの世に一つの光源として現れ、OHPに当たって映し出している映像のように、この神秘的な森を表象したのだ。
読者は、その森の時間と空間を共有している。
カーソン・マッカラーズではないが、少年は『結婚式のメンバー』ではなく『伝説の大熊を狩るメンバー』である。
この少年が、森のなかで学んだのは勇気だけではない。
この世界に現象化する自分自身の意志を、目の当たりにしたのだ。
やがて、この神秘の森は、製材工場によって、ただの森に、世界中の、どこの森とも一緒の平凡な森になっていく。
日本にもかつて、このような神秘的な森があった。
しかし、製材工場によって、北軍によって、産業資本の自己増殖によって、神秘性を奪われて今に至る。
1955年、善光寺の入り口にある五明館を訪れたフォークナーは
『私たちの国も敗けたのであり、私も敗戦の味を知るものです……』と語って、訳者を困惑させた。
敗戦によって失ったのは、我々の本質としての内なる永続性への確信だ。
戦後の私たちは、現世を漂う浮遊霊のように、輪郭を持たず生きている。
資本の人格的な動きに翻弄されて生きる私たち。残された、意志の表象としての世界は、はかない。
最近では、ジビエといって野生の鹿や猪を狩るのがブームだが、私は、違和感を感じる。
我々は、少年のように、素手で自然に向き合っているのだろうか?
サム・ファーザーズのように、自然の叡智に敬意を払っているだろうか?
無自覚に森に入ることは怖ろしいと思う。
(おわり)
読書会の模様です。