
『生ける神のみ手のうちに落ちるのは、恐ろしいことである』
『ヘブル人への手紙』第十章第三十一節
出家したばかりの若き日のゾシマのもとに、慈善家が訪れる。
彼には秘密があった。14年前に令嬢に恋して、嫉妬から彼女を発作的に
殺してしまったのだ。
殺人事件は偶然にも、彼女の召使のせいにされ、容疑者も取調中に
急病で死んでしまい事件は、勝手に収束してしまった。
慈善家は、同じく嫉妬から、決闘沙汰となり、突然改心して、
敬虔なキリスト教徒になったゾシマのことを噂に聞き、
引き寄せられるように彼のもとを訪れたのだった。
親密な交際がはじまり、やがて
慈善家は、かつて自分の嫉妬心から人を殺してしまったことを告白する。
彼は、ずっと『生ける神のみ手のうちに落ちていた』
殺人のあと財産をなした慈善家の心には、一度も安らぎは訪れなかった。
自分の犯した罪を秘密として抱え込んだ彼の良心は
生ける神のみ手のうちに落ちて苦悩していた。
ゾシマとの交際の中で、ついに、彼は、真犯人は自分だと名乗り出る決意をした。
しかし、ゾシマに自分の隠してきた罪を告白した途端、
ゾシマのことが猛烈に憎くなってきた。
幸せな家庭を壊してまで、告白する罪を告白する価値があるのか?
世間は罪告白を、偉大な決意として尊敬してくれるのか?
世間のことばかりが、慈善家の頭をよぎり、決意はゆらいだ。
ゾシマは彼の自首を励ますが、彼の自己欺瞞に気がついた。
『ああ、立派な人なのに、どこまで堕ちてしまったのだろう!』
(『カラマーゾフの兄弟』 中 P119)
ゾシマは、慈善家の自己欺瞞を恐ろしく思い、彼のために祈った。
しかし、慈善家は、口封じのためにゾシマを殺そうと思い、彼のもとを再訪した。
「わたしは、その、何か忘れ物をしたような気がして、ハンカチでしたかな」
(『カラマーゾフの兄弟』 中 P119)
ハンカチという口実には、恐るべきウソが隠されていた。
『生ける神のみ手のうちに落ちるのは、恐ろしいことである』
良心のある人は、恥辱にたえられない。
しかし、真実を告白すれば、それがやがて憎しみに変わる。
人間は神のみ手のうちで『自己欺瞞』という名の恐ろしいダンスを踊っている。
(終わり)
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