『カラマーゾフの兄弟』より 『ゾシマと自己欺瞞』

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ゾシマは『神の国』は近いと信じている。

世界中の人間の犯した罪のためにゾシマは跪拝する。

 

『真理とは虚偽との尺度である』

とキルケゴールは言ったが、

人間も誰しも、自己欺瞞を抱えて生きている。

 

 

真理は、現実社会において自己欺瞞の強い支配者だけが手にするものである。

ローマ皇帝のような、ナポレオンのような、現世の支配者は、

自己欺瞞を真理と言い募って、己の権力をふるい、民衆を導く。

 

彼らは、服従を「選択された自由」として受け入れるように

民衆に、洗脳を施だろう。

 

しかし、民衆は、支配者に洗脳される以前に、

率先して、自己欺瞞の奴隷となり、自由を放棄して、自らを欺く。

 

「人を赦す」というのは、神の名を借りた自己欺瞞でしかない。

 

しかし、「人を赦す」というのは民衆には高度すぎる自己欺瞞なのだ。

 

権力を前にして、民衆は、進んで自己欺瞞を受け入れるのだ。

たとえば、民衆が「人を赦す」には奇跡が必要だ。

 

民衆は奇跡ならばすぐに信じられる。

 

単純な奇跡が目の前に起こらなければ、民衆は自己欺瞞を維持できない。

奇跡が存在しなくても、民衆は奇跡を自己欺瞞として編み出す。

 

偽物の奇跡が信仰のなかに混じっている。

 

ゾシマが恐れるのは、容易に信仰を失う民衆の自己欺瞞である。

 

実現の直前にあって、未だ実現することのない

奇跡を信じきれる人間は、強い意志をもっている。

 

しかし、民衆はそこまでの強い意志を持っていない。

 

信仰は自己欺瞞であるが、奇跡なしに自己欺瞞を維持するのは至難の業である。

 

ゾシマは、『神の国』が、実現の直前にあると信じている。

 

それを強い意志で信じられる、選ばれた人間なのだ。

 

信じることをやめた途端に、人間は、支配されるだけの奴隷に成り果てる。

 

卑劣な人間が必死になって自分についている嘘ですら、

自分がただの奴隷であることを認めたくないという

民衆の自己欺瞞の所産である。

 

卑劣漢のフョードルでさえ、自分を欺くには、人格として弱すぎるのだ。

 

それは、彼の本性が奴隷だからだ。

 

支配者は、民衆が奴隷にすぎないというからくりを知っている。

大審問官も知っている。

 

世界中の人間の犯した罪に、敢えて跪拝してみせるゾシマは、

羊の皮を被った大審問官かもしれない。

 

彼の遺体の腐敗が、人々を怒らせるのは、

民衆が、自己欺瞞から目覚めさせられた恐怖ゆえだ。

 

(終わり)

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