坂口安吾『白痴』読書会のもよう(2019 11 22)

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2019.11.22に行った坂口安吾『白痴』読書会のもようです。

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私も書きました。

「戦争の破壊の巨大な愛情」

家鴨はエサ箱に入って餌を食べる。私は、地元の動物園のエサ箱を泳ぐコールダックの動画に、畜生の浅ましさと悲しみをおぼえた。彼らは、お餅のような身体をキャベツの千切りにまみれさせて、エサを貪っている。かりに、裸の人間が、ご飯や味噌汁の中で貪っているのを想像すると、畜生という存在の浅ましさと悲しみが痛いほどわかる。

『白痴』には豚や家鴨が、蹴られたり石をぶつけられたりするシーンが執拗に描かれている。作品に独特のユーモアとテンポをもたらしている。豚や家鴨は特に浅ましい動物であり、その浅ましさや悲しみは人間にも無縁ではないので同族嫌悪が湧いてくる。

お遍路で隣の気違いが拾ってきた白痴の女は、現実存在が肉欲の浅ましい反応だけで成り立っている。よって、自然と白痴なりに男を誘惑する。肉欲の本能を頼りに、伊沢の性欲を当てにして押し入れに逃げ込んできた。畜生の浅ましさである。

しかし、お遍路では、行き倒れてもいいように、死装束と死んだら卒塔婆にもなる金剛杖の持参で出かけるそうだ。一説によると、お遍路の金剛杖は、弘法大師が同行を意味するそうだ(『同行二人 どうぎょうににん』)。『いつもこの道』しかない道は同行二人だ。白痴の女は、いわば金剛杖であり、弘法大師の同行二人の比喩かもしれない。

涅槃とは、寂滅のことだ。人間の認識の彼岸に、絶対的な静けさがあり、それが寂滅である。此岸に生きる人間は、有情(サットヴァ)に由来する煩悩に苛まれ、業(カルマン)と呼ばれる「行動の意味」に囚われている。『古池や蛙飛び込む水の音』と芭蕉は読んだが、破られた寂滅こそ、彼岸の現れなのである。

伊沢は、月給200円という悪霊に魂を服従させられている。つまり資本主義社会の行動の意味=労働という業に囚われているわけだ。彼の芸術への憧れは、業の中でもがく、人間の浅ましさの裏返しだ。人間は浅ましさから自由になれない。井戸端会議並みの浅ましさから成る世間は、焼夷弾の雨降る戦争の極限状態においては、ついには、行為にふけりつつ豚の尻の肉を貪るようなエロスとタナトスの無明の世界まで没落する。

しかし、まだ、寂滅はあらわれない。

『人間の最後の住みかはふるさとで、あなたいわば常にそのふるさとの住人のようなもの』

ここで言われた『ふるさと』とは、寂滅の彼岸への現実存在の没落のことである。焼夷弾の降る同行二人の道行きは没落であった。没落のさなかに、白痴の女は、頷くことで初めて自分の意志を示した。

『意志はここで没落していく現象の核心であり、それは物自体として不滅である。』と、ショウペンハウエルは、こう言った。

物自体としての常に不滅なのは、寂滅のほうである。小さな十字路は、人間の罪科を背負うイエス・キリストのものであり、仏の道ではない。すべてが破壊され、没落した人間が白痴の豚の甘い眠りを貪る肉塊に成り果てて、ようやく寂滅のほうに存在する『巨大な愛情』に気がつく。

戦争の破壊の果てに、私たちの理智では伺うことのできなかった寂滅から、なにかが、働きかけてくる。それは、浅ましい豚である同行の白痴の女と我々衆生の背筋をほんの少し照らして、朝の厳しい寒さを和らげてくれる温もりのようなものである。それこそが『戦争の破壊の巨大な愛情』なのではないか。

 (おわり)

読書会の模様はこちらです。

  • 2020 04.20
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