
2017.10.22にイプセン『人形の家』でツイキャス読書会を開催しました。
私も書きました。
「自由からの逃走」
「イブセンの人物に似ているのは里見のお嬢さんばかりじゃない。今の一般の女性(にょしょう)はみんな似ている。女性ばかりじゃない。いやしくも新しい空気に触れた男はみんなイブセンの人物に似たところがある。ただ男も女もイブセンのように自由行動を取らないだけだ。腹のなかではたいていかぶれている」
夏目漱石の『三四郎』のなかで与次郎のセリフだ。
ノラのように、夫との偽りの関係に気がついて、鳥かごからでていく現実的な決断を私たちは、ほとんどしていない。自由行動に憧れているけど、あくまでも腹の中だけの話だ。
音楽やドラマや漫画のなかでは、自由に生きる登場人物を愛しているが、現実生活では、どうだろう? 野々宮さんに好意を持ち、振り向いてほしくて大胆にふるまったが、結局は、お見合い結婚してしまった『三四郎』の美禰子のように、我々も、しぶしぶ現実的な選択に落ちついている。
自由に行動できるフリはしているが、ホントに自由かというと、全然自由じゃないんだな、これが。
エーリッヒ・フロムじゃないけれど、むしろ『自由からの逃走』だ。
『人間は自由なものとして生まれたが、いたるところで鎖につながれている。』とは『社会契約論』のルソーの言葉。
自由だ! 愛だ! と青春のドラマは訴えるが、せめて、他より見栄えのする鳥かごを見つけるので精一杯だ。
報道に携わりたいと思って、大手メディアに就職すれば、鳥かごの鳥であることを嫌というほど思い知るだろう。報道の自由とは名ばかりで、幾重もの鎖のような自主規制にがんじがらめにされている。誰が悪いというわけではない。
とりわけ、国家権力が巨悪だというわけでもない。
恐怖ゆえに、たいていは、自由から、てめえのほうで逃げ出すのだ。人間は。
進学、就職、結婚。人生の節目でのあらゆる選択は、自由に見えて、その都度の妥協である。
ノラのように人形扱いされて、夫の支配下に置かれているのは、この社会の宿命だ。就職すれば会社の支配下だ。
権利と義務のもとにコントロールされ、共依存関係を余儀なくされる。
権威の壁は厚い。自由は、卵のように脆い。
(おわり)
読書会のもようです。