
2019.4.26に行った夏目漱石『こころ』読書会のもようです。
私も書きました。
『1→0 無への移行 令和の精神』
0の概念は、6世紀にインドで発見された。「何もない」、すなわち「無」を記号で表し概念化したのだ。おにぎりは食べればなくなる。1から0。おにぎりが0個というのは、存在していたものが無に移行したことを示す。
1→0 存在していたものと、存在していたものの無への移行。無は、現象から無への移行を示す。人間は無に移行する。生きることは現象化であり、死は、現象から無への移行だ。
「自分は薄志弱行なので到底行先の望みがないので、自殺する」とはKの遺言である。
自殺したKは、先生の目の前で、無に移行していった。
無が存在するのではない。無への移行だ。存在したから無がある。現象化し、存在したことのないものが無に移行することはない。自殺も殉死も、自発的な無への移行だ。1→0への移行である。
自殺も殉死も、もはや、生きようと欲しないことである。ショウペンハウエルは『自殺について』において、生きようと欲しないこと、すなわち「生きんとする意志の否定」を非意欲(非意慾)と名付けた。自殺や殉死は、非意欲である。
我々は、非意慾については、単にそれもはいりこんでくるものであるということ以外には、特にそれの現象というのは何も知らない。しかも、その非意慾は、もともとすでに意慾の現象に属しているところの個体のなかだけにはいりこんでくるものなのである。そこで、我々は、個体が生存している限り非意慾がいつも意慾と戦い続けているのを見ることになる。『自殺について』P.84
Kの自殺は、先生の人生を変えた。Kの1→0の以降によって現れた「無」は、先生の頭の中に入り込んできた。そして、先生の生きようとする意欲が、無と戦いはじめた。
近代の市場経済には、無としての0が溢れかえっている。デジタル空間の中で、人間の信用の1→0のプロセスとしての貨幣は限りなく膨張し、非意欲が意欲を呑み込んでいく。
勤労意欲は、非意欲に侵食される。それは死んだKが、先生の意欲に侵食していったのに似ている。明治天皇崩御も、乃木将軍の意欲を侵食していったのだ。
(おわり)
読書会の模様です。