2018.11.23に行った川端康成『雪国』読書会のもようです。
私も書きました。
『御機屋の霊威』
『雪国』の元ネタとなっている『北越雪譜』を読んでいたら、縮を織る若い女性にまつわる奇譚が描かれていた。
村のある青年と親に内緒で夫婦を契った織り娘が、御機屋で失神する。自分が娘の身を穢したせいだと、青年が娘の親に謝ると、娘は正気に返ったという。機織りの神は、穢れを嫌う。身を清めず御機屋に入ると天罰が下るという教訓話だ。その後、娘は機織りをやめて、青年と無事結婚した。 (『北越雪譜』岩波文庫P79『御機屋の霊威』)
縮織は気力盛んな娘が精魂傾けなければ、品質を保てない繊細な商品だったらしい。『北越雪譜』には、せっかく織った縮が雪にさらされてもどってくると、穢れの斑点が浮かんだので、気が狂う娘のエピソードも描かれている。(『織婦の発狂(はたおりをんなのきちがひ』)
この話を読んでから『雪国』を再読すると、葉子が、伝承のなかの狂った機織り娘に重なった。
スキー客と湯治客で賑わう観光地であり、この『雪国』の機織りはもう、廃れた。伝統が継承されなくなれば、処女が縮みを織る文化習慣もなくなる。そうやって取り残された時代遅れ機織り娘が葉子だとすれば、葉子の痛ましい最後は、機織りの神の仕業かもしれない。
哲学者、九鬼周造は『「いき」の構造』で「いき」を男女間の①媚態 ②意気地 ③諦め この三つの要素からなると解説している。
駒子の媚態、駒子の意気地、駒子の諦め。島村が駒子に見た徒労は、仏教的諦観に近い。彼女の諦めが、ますます彼女を「純粋」にしてゆく
仏教的諦観とはなにか。それは、機織りの神に関わっている。駒子は御機屋に拒否されている浮遊の身だ。しかし、根なし草の自覚による仏教的諦観こそ、「いき」につながる。九鬼は年増芸者の「諦め」こそが「いき」なのだと説く。
駒子にあったら、頭から徒労だと叩きつけてやろうと考えると、またしても島村にはなにか反って彼女の存在が純粋に感じられて来るのだった。
やがて、徒労の重みで野暮ったくなり、焦ったようなテンポで島村の部屋にやってくる駒子と、霊威に翻弄されて、舞い狂いなが繭倉から落ちてくる葉子のコントラストが、島村は、戦慄させた。
三年間で三回通い、『雪国』の霊威の徴を見届けて、島村は去っていった。
(おわり)
読書会の模様です。