2018.9.14に行った夏目漱石『三四郎』読書会のもようです。
私も書きました。
「美禰子の合目的性」
合目的性とは、カントの『判断力批判』で説明される概念だ。
カントは合目的性を『概念の原因性』と説明している。
ラテン語でforma finalis. (英語で言えば、form of finality ということだろうか)
合目的性とは、『目的のために最適な形式』ということだ。
人間の合目的性は、『生殖と死』とを最終目的としている。それは、エロスとタナトスといってもよい。サケやマスが生まれた河を遡り、生殖と死を迎える。あれが、生物の一つの合目的性である。河を遡る行為は、目的に向かって形式を得たことということである。
抽象的な言い方だが、生物という概念は『生殖と死』を原因としている。
人間の場合は、生殖(両親のSEX)から死までのライムラグに形式を与えたものが、人生である。サケやマスの場合、海にいたままだと、消滅してしまうので、河を遡るという合目的性が要求される。
田舎から出てきた、三四郎は海に出てきた魚のようなものである。小説の最終部分の彼の帰省は、三輪田のお光さんとの結婚を暗示している。田舎で幼馴染と結婚することは、彼の立場に要求される合目的性である。
三四郎は、美禰子を見て「矛盾」を感じた。美禰子が、野々宮に惹かれながら、彼女に惹かれない野々宮へのあてつけとして、三四郎に接近し、最終的に、よし子の断った縁談相手と結婚してしまう。美禰子の秘めたる合目的性をを三四郎が理解していく過程がこの小説のハイライトだ。
美禰子が美しいのは、花が美しいのと似ている。美禰子を描いた『森の女』は、彼女の若さのピークにおける美しさに形式を与えた。芸術は、美しさに形式を与えるためにある。美に形式を与えるのが芸術の合目的性だ。
美禰子は、現実的な結婚を選択した。それは成長したサケが産卵のために河口入り遡上し始める行為によく似ている
美禰子の自由は、野々宮と三四郎を巻き込んだ恋愛の三角関係という形式にあった。『森の女』という作品を花筐として、彼女は青春に別れを告げ、人生に一つの形式を得た。
『こころ』の先生の『明治の精神』に殉死するのが合目的性なら、美禰子のお見合い結婚もそれと同じ合目的性である。広田先生が言うように偽善を偽善としてする正直=露悪こそが、近代日本の合目的性の核心である。
(おわり)
読書会の模様です。