
2018.11.16に行ったエミリー・ブロンテ『嵐が丘』読書会のもようです。
私も書きました。
「生は夢なのであって、死はまた目覚めである」
『嵐が丘』というのは思弁小説だ。通俗小説のような登場人物が、支離滅裂な行動をして、死んでいく。しかし、思弁小説だからこそ、著者のエミリー・ブロンテの描きたかった『意志』に触れたような気がした。『人生とはかかる根源的状態(引用者注 意志のこと)のひとつのエピソードにすぎなかった』とショウペンハウエルは言った。 (『自殺について』岩波文庫 P.14)
ヒースクリフとキャサリンは、もとはひとつの意志だった。この世では、ヒースクリフとキャサリンのあいだの激しい愛憎として現象化した。そしてキャサリン亡き後の、この現象化した愛の亡霊が描かれている。
嵐が丘とスラッシュクロス。この二つの家系が、孤児ヒースクリフによってハッキングされた。
差別されて育ったヒースクリフの復讐は、成就したかに見えた。3年間の失踪の間に、彼は、財産権に関する法律知識や、金の稼ぎ方を学んで、自分を見下してきた奴らを経済的に支配下に置くことはできた。
だが、誤算だったのは、この二つの家系の奥にある、現象化されていない意志である。最終的にキャシーとヘアトンは結婚するのだが、この二人は、ヒースクリフの復讐を、裏切り、かつまた、皮肉にも別の形で成就したのだ。
キャシーとヘアトンの仲睦まじい様子に、ヒースクリフは、自分とキャサリンの成就しなかった青春の恋のををかさねて喜びを抑えられなかった。
そうだ、ヘアトンの姿はおれの不朽の愛の亡霊だったのだ。おれの権利を、堕落を、プライドを、幸福を、苦悩を、この手にしっかり握っておこうという狂気のような努力の亡霊だったのだ―――― (光文社新訳古典文庫 下巻 P380)
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結局、ヒースクリフの暴力の中で、生き残ったのは、嵐が丘とスラッシュクロスの正当な嫡子であるヘアトンとキャシーだった。復習への執念が、予想もつかない結末で、再び現象化した。墓場のなかで永遠に成就した愛の亡霊と、あらたに現象化した二人の儚い人生との対照。
『生は夢なのであって、死はまた目覚めである』 (『自殺について』岩波文庫 P.14)
ショウペンハウエルの格言をまざまざと見た気がした。
(おわり)
読書会の模様です。