2018.9.21に行った石牟礼道子『苦海浄土』読書会のもようです。
私も書きました。
「最低限の希望はわかり合う努力をすること」
石牟礼道子氏が、NHKのクロ現のインタビューでこう言っていた。
石牟礼氏の書いていることは、取材をもとにしたフィクションだと思う。水俣病の被害者たちの言葉を、同郷の人間として代弁したのだ。代弁して、言葉を紡がなければ、社会に分断が広がっていく。
今もなお、水俣病の後遺症に苦しむ人が現れており、救済を求めているという。
福島も沖縄も、そして水俣の問題も住民をとりまく幾つものレイヤー(層)がある。そのレイヤーに言葉を当てて、表現することによって紡がれたひとりひとりの住民の物語に丹念に寄り添い、理解する努力がなければ、『原告団』という単純な裁判用語のラベリングによって処理されてしまう。
資本の急激な膨張が、戦後日本の経済成長を実現したのは間違いない。チッソの水俣の住民の経済にとっての恩恵面は否定できない。
その一方で、資本の価値の自己増殖が、不知火の海の沿岸を、穢土にかえてしまい、そこで生計を立てていた漁民たちを苦しませ、社会から分断していたのも事実だ。
生産性は、資本の価値の自己増殖の尺度だ。村の中に工場が誘致されれば、その村社会は分断される。お互いを安易なラベリングで決めつけ、複雑なレイヤーが現れれば、やがてお互いを理解し合おうとする努力もしなくなる。
ナチスドイツは、『ユダヤ人』とラベリングされると絶滅収容所で徹底的に生産性として搾取される政治体制を作った。
畳の上で、食事も排泄もままならぬまま、尊厳を消耗していく状況を生み出してしまう恐ろしさを、人間の言葉で説明しなければ、人間の社会は分断され、嫌悪による感覚麻痺によって同じ人間を、モノのように扱うようになる。自分の家が絶滅収容所になる可能性の中で生きている。
この社会の中で、救われない人間が孤立し、沈黙の中に押しやられる。やがて、自由だと思っていたわれわれの腕にも、分断の証としての囚人番号の入れ墨が見えはじめるかもしれない。
排外主義、差別が、日本社会を分断しはじめている。悪質なデマゴーグは、その分断を飯のタネにして、囚人番号を叫びながら、人々を糾弾する。
(おわり)
読書会の模様です。