2018.7.6に行った檀一雄『花筐』読書会のもようです。
私も書きました。
『皇子と物狂い』
スイスの療養所のベッドに横たわる吉良の写真の裏に何があったか?
榊山が赤くなったのだから、それは、千歳に撮らせた美那以外の女子寄宿舎の女の裸の写真なのだろう。
鵜飼が美那に飲ませた鱗。その鱗の持ち主たる蛇は吉良のことかもしれなくて、彼はもともとエデンの園を住処としていたのかもしれない。
吉良というのは、脱皮した蛇の抜け殻みたいのようなもので、この世では、すでに生きていない。彼が自己申告の通り「形骸」である。
成仏できない亡霊のようなもので、儚い現在を目的もなく生きていた。
一方、風狂と倒錯は、鵜飼の生命を美しく際だたせる。吉良と鵜飼は、陰と陽だ。
吉良は、海に身を投げ、美那は、病を得て死んだ。榊山、その他人々は、鵜飼が夜光虫のきらめく沖まで泳いでいる間に、脇役がみな能舞台から退くかのようにひっそりと消えた。
世阿弥が創作したと言われる『花筐』は、突然皇位継承した男大迹(おおあとめ)皇子と彼を慕う、照日の前の物狂いが描かれている。鵜飼は、臣籍降下した光源氏のように世俗で過ちを繰り返して神に近づく一人の逆説的な皇子かもしれない。
人間社会の宿痾である孤独と無力と不安は、周期的に、大規模な破壊的衝動にまで膨れ上がり、マスヒステリーの物狂いとして、やがて爆発する。
だが、たいていの物狂いは、人間の表現形式の中で合理的に解消されていく。義満、信長をはじめ権力者が夢幻能を嗜むのは、物狂いに形式を与えて鎮めるためかもしれない。予備校の始業式に、どうどうと教室を出ていくような学生は、物狂いに形式を与えたくて出ていくのだ。
警官が警官を射殺し、無宿者が新幹線で単独テロを犯し、元自衛官が警官から拳銃を奪い、小学校に発砲し、死刑執行のリアルタイム報道が朝から流れる。大規模破壊の兆候としての物狂いが、憂鬱の原因にもならないで日々の雑事の中で雲散霧消していく。
現存在はつかの間の夢であり、その儚さはゆえに物狂いは、ますます募る。
(おわり)
読書会の模様です。