2018.3.30に行った田山花袋『蒲団』 読書会のもようです。
私も書きました。
「嗚呼、余計者にもなれず市井の片隅に」
性欲と道徳のジレンマの問題が、急に明治に現れた。世間の価値観との政治的といえる闘争である。もっと進めば、やがて社会主義革命運動になる。明治の文学史によれば、自由民権運動に挫折し、政治をあきらめた人々が、自然主義の文学運動に流れ着いたという。この中年作家は、世間に所帯を持って、市井の片隅に生悟りの道徳的作家として、慎ましく生きていた。彼は、とっくに政治問題から、逃げていた。しかし、芳子への恋愛を通して、遅ればせながら、政治問題のようなものに巻き込まれた。
竹中時雄には、立場があるので、自分の恋は世間に隠さなければならない。女弟子を情人にしたいという道徳上のジレンマがどんどん明らかになる。
時雄は自分の嫉妬を抑え込むために、芳子と田中の関係が清廉潔白なものだと信じようとしていた。自己欺瞞もいいところだ、監督者として保護者として、さらには新時代の若者の理解者としての役割を演じながら、暗い情念と必死に戦っていた。
泥鴨(汚いあひる)のように酔って、便所に倒れ込んで、庭の雨をじっと眺める鋭い眼差しは、人間の最奥にある暗い情念を見つめていたのである。
エロスとタナトス。女弟子と一線を越えるか否かは畢竟、政治的な決断と同じなのだ。意志が問われているのだ。
意志は現象の没落の核心である。不倫で身を滅ぼせるほどの情熱があれば、時雄にも意志の核心があったことになる。
田中と芳子の二人は、情熱的に没落した。だが、蒲団を嗅いで泣いた時雄には、没落さえも許されていなかった。
女の残したパジャマや蒲団の臭いに、中年男が咽び泣くのはみっともないが、こんな羞恥しか彼には許されてはいない。時雄の苦悶が痛いほどわかる。没落できない苦悶。意志の欠如。一線を踏み越えることは、世間の中の自分の場所を、自分で葬り去ることだ。
余計者らしく、惑溺の上に、家庭を捨てて、頓死することもない時雄には、芯のない人生の茫漠が残されている。
(おわり)
読書会の模様です。