2018.4.6に行ったチェーホフの『桜の園』の読書会の模様です。
私も書きました。
「桜が散っているのではない、人が散っているのだ」
ラネーフスカヤ夫人は、桜の園を手放して、大都会パリにて死にかかっている愛人のもとに帰った。
そして、成金ロパーヒンは、とうとう競売で落札した。それは、農奴であった祖父がこき使われていた桜の園であった。
アーニャ、あなたのお祖父さんも、ひいお祖父さんも、もっと前の先祖も、みんな農奴制度の讃美者で、生きた魂を奴隷にしてしぼり上げていたんです。で、どうです、この庭の桜の一つ一つから、その葉の一枚一枚から、その幹の一本一本から、人間の眼があなたを見ていはしませんか、その声があなたには聞えませんか?
財産権や所有権が特権階級のものであったとき、資本が、一部の階級に独占されたとき、生きた魂は、市場経済の中で、ぎゅうぎゅうと搾り取られ、その分だけ、桜の園は、勢いをまして、ますます美しく咲き誇る。
坂口安吾の『桜の森の満開の下』は、鬼と化した女を、男が絞め殺すシーンで終わっている。
ロパーヒンとラネーフスカヤの関係を少し彷彿とさせる。最終部分のこの文章。
彼は女の顔の上の花びらをとってやろうとしました。彼の手が女の顔にとどこうとした時に、何か変ったことが起ったように思われました。すると、彼の手の下には降りつもった花びらばかりで、女の姿は掻き消えてただ幾つかの花びらになっていました。そして、その花びらを掻き分けようとした彼の手も彼の身体も延した時にはもはや消えていました。あとに花びらと、冷めたい虚空がはりつめているばかりでした。
日本の桜の園は、日本のものだ。
満開の桜は、日本の繁栄の象徴だ。繁栄は、多くの人の生きた魂をぎゅうぎゅうぎゅと絞り、その滋養によって、一斉に、咲き誇り、一斉に、散る。
1945年の上野の森。東京大空襲の焼死体が集められた空の上に、咲き渡る満開の桜を、安吾は観たそうだ。
花びらに埋まる焼死体の山。終わりのはじまり。没落する現象。生命の核心。冷たい虚空。
(おわり)
読書会の模様です。