2018.3.23に行った三島由紀夫『午後の曳航』読書会のもようです。
私も書きました。
「国体の見張り人兼執行人」
僕たちの義務はわかっているね。ころがり落ちた歯車は、又もとのところへ、無理矢理はめこまなくちゃいけない。そうしなくちゃ世界の秩序が保てない。僕たちは世界が空っぽだということを知っているんだから、大切なのは、その空っぽの秩序をなんとか保っていくことしかない。僕たちはそのための見張り人だし、そのための執行人なんだからね。
塚崎竜二が、海を捨て、陸地で平凡な父親になることは、世界の秩序に反する。だから、彼を英雄にするために、この恐るべき子供たちは、彼に睡眠薬入りの紅茶を飲ませ惨殺する。
世界は空っぽだが、空虚の中心は、しっかり埋めなければならない。幕末の尊王攘夷志士も、ことあるごとに天皇を「玉」と呼んではばからなかった。
信じていないものを信じているふりをするという様式性が、日本の政治・社会制度の根底にある「国体」の特徴である。そして、信じているふりこそが、空っぽの秩序を保つために、十全に権威を発揮するのである。
竜二の惨殺は、米軍用地跡で行われる。今は、日本の法のもとにある。占領時代を経た戦後日本にとって、「落ちた歯車」は何であろうか。国体であろうか? 現人神としての天皇だろうか?
竜二を殺すことが、燔祭であるとすれば、占領後の日本は、神聖な領域を失っているから、その燔祭は、偽りの儀式に過ぎない。何の神に、この偽物の英雄を捧げるのか?
(引用はじめ)
うしろ向きの墓や十字架。それらがみんなむこうへ顔を向けているのならば、僕たちがいるこのうしろ側は、何と名付けられるべき場所なのだろう。
(引用おわり)
大岡昇平の『野火』に、菊花の紋にばってん(十字架)された三八銃が出てくる。十字架の後ろにあるのは、菊花の紋(=国体)であることを意味している。
「男がみな人食い人種であるように、女はみな淫売である。各自そのなすべきことをなせばよいのである。」 『野火』
これは、人間の本質である。しかし、その味気なさが我慢ならないので様式を求める。
平和な時代の子どもたちは、猫をなぶり殺し、やがて人をなぶり殺し、空虚なる国体の見張り人兼執行人として自らを育成する。
(おわり)
読書会の模様です。