
2018.2.23に行った
カズオ・イシグロ『わたしたちが孤児だったころ』読書会のもようです。
「目覚めない悪夢」
主人公のクリストファー・バンクスは、失踪した両親が監禁されていたと思われる家の住所を探し当てる。その家は、戦場の最前線にあり、カフカの『城』のように、なかなかたどり着けない。たどりつくと、死んだ犬と、首から血を流した少女がいた。
この本を読んで、眠った昨晩、私も同じような夢を見た。以前住んでいた街の駅まわりをぐるぐるまわって、街の一番大きな公園を探す。そこでは、テニスの大会があり、自分の出場する予定の試合の時間が近づいている。しかし、公園にたどり着かないうちに、テレビで観たことのある俳優のマンションに案内され、寝室に招かれると、高校時代の同級生の女の子がベッドで寝ていて、寝ぼけまなこで迎えてくれた。彼女とは高校卒業以来一度もあっていない。それから、洗面所を借りて、具合が悪くなったので吐くと、喉から笹飴みたいなものがいつまでも流れ出すという悪夢だった。
この作品の後半も悪夢だった。どこか既視感のある悪夢がつづく。母は、軍閥の奴隷にされていた。叔父は裏切り者だった。上海の支配階級は腐敗していて、戦争で私腹を肥やしている。民衆は阿片中毒であり、サラの結婚相手の上院議員もギャンブル中毒だ。中共、国民政府と日本軍が戦争していて、泥沼である。
孤児たちは、自分がどうして孤児なのかわからないまま世界に投げ出されている。記憶は捏造され、悪は、隠蔽される。
疑いだせば、この世の中は、悪意によって成り立っているのではないかという不安に襲われる。戦争の正義は仕組まれたものであり、庶民は、一片の肉や、一滴の血になるまで搾り取られる。自分が、裁かれないためには、自分も末人となって、裁くのをやめなければならない。クリストファーの母のように道徳的であろうとすれば、ジョージ・オーウェルの『1984年』の愛情省101号室のような場所で、拷問を受けて、自分の尊厳と信念までズタズタにさせられ、やがて廃人にされる。
良心の自由が、脅威にさらされている。つぎは自分の番ではないか、という目覚めない悪夢。
(おわり)
読書会の模様です。