2016年10月28日に行ったツイキャス読書会の模様です。
課題図書は、森鴎外の『かのように』でした。
私も書きました。
『ワンレン・ボディコン・かのように』
「お前の先祖は猿じゃないか!」と言われれば、誰だって良い気はしない。
猿以上なにものかだと、日本人としての私は、心のなかで、反発する。
人は思い出を飾りたがり、都合の悪いことは見ないふりする。
バブル世代は、ワンレン・ボディコン・舘ひろし的なバブル自慢をするが
バブル崩壊後の借金は、話したがらない。
森鷗外の短編小説『かのように』の主人公、秀麿は歴史を専攻しており、
ドイツに留学して、神学という学問を知った。
神学を研究しているからといって、信仰が必要なわけではない。
人間は、社会生活を送るうえで、目に見えないものを必要としている。
生物学的には、先祖は猿であるのだが、猿にはなくて人間にあるものがある。
それは「理性」である。
ものごとを筋道立てて考える能力だ。
人間の社会が、広範囲に組織だっているのは理性のおかげである。
しかし、ヨーロッパ人は、何度も戦争して理性の限界に行き当たった。
神は目に見えないし、神話も実際あった歴史的事実ではない。
それは、理性の限界を超えた問題である。要するに信じるか信じないかの話だ。
でも、国家や民族が、お互い信じるか信じないかに白黒つけようとすると悲惨なことになる。
だから、神も神話も必要だということを、ヨーロッパ人は理解している。
ただ、信じるか信じないかは、「あなた次第だ!」というルールで暮らしている。
信仰の程度はちがっても、みんな、神はある『かのように』振る舞うことで、社会秩序が成り立っている。
これが、ヨーロッパ近代社会の土台であることを秀麿は悟った。
ヨーロッパの啓蒙主義や神学にふれて、日本人はようやく理性の限界にたどりつくのだ。
しかし、多くの日本人は理性の限界など感じたことがない。
日本人であれば、日本の神も神話も、無自覚に信じざるを得ない。
そして無自覚に信じていることへの自覚がない。
日本で、『かのように』を説明すると、
『そんな考え方して楽しいですか?』と腫れ物に触れるように扱われてしまう。
(おわり)
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読書会のもようです。
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