
2017.4.20にツイキャスで行った梶井基次郎の『檸檬』の読書会のもようです。
私も書きました。
「檸檬になる日は、もう来ない」
何かをなそうと思えば、日々のパンに生きるしかない。もはや、叶わなかった儚い憧れに思いを馳せるのは、非合理だ。
「こっちが気恥ずかしくなるわい」
『檸檬』を、初めて読んだ高校生の時分の私は、レモンを爆弾に見立てるという青臭いアイデアを、ふん、と笑いとばした。侮蔑の印象は、この檸檬以上の可能性を、自分が手にしているという、当時の錯覚からだった。
若さゆえの驕り、健康ゆえの卑劣さ、無分別ゆえの短慮である。吹き上がった高校生だった自分を叱りつけたい。
そして、初読から、二十数年がたった。再読した。
圧迫から解放されるための自由とは何か? 力の入らない腕に、高価な画集を何度も抱えて、その堆積の頂点に、レモンを置くこと。
そして、お高くとまった『気詰まりな丸善』を粉葉みじんにする妄想。
こんな、凡庸で、自分勝手なイメージの、何が、自由なのか?
『えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧さえつけていた。』
その後、作者の年齢を超えるまでに、私は、とっくに、不吉な魂を飼いならしてしまい、幾つかのささいな挫折に打ちひしがれて、卑怯さをごまかして、自分をやり過ごす術を身につけてしまった。
だから、『檸檬』に、共感することが、もうできない。
無理に、共感しようとすれば、自己否定になりそうだ。
限りある生命のさだめに、抗っている作者の純真さに寄り添おうとしても、今の自分には、嘘になる。
肺尖を病んで悪くしていつも熱っぽい身体が、檸檬のたったひとつで、軽やかに興奮で弾んで、一種誇らかな気持ちさえ感じる。健康を害した人生で、思うにまかせない身体が、ひとつの檸檬の効果で、どんどん冴え渡ってくる。
冷覚や触覚や嗅覚や視覚がフル動員され、ますます、自由の観念は、澄明な輪郭をきわだたせゆく。やがて、絶対の域にまでに高まっていく……笑いの中に消滅していく……
私が、檸檬になる日は、来ないだろう。
ひとつの檸檬が、くじけそうな私を、とことんまで正当化する日も 残念ながら来ない。
(おわり)
読書会の模様はこちらです。
この記事へのコメントはありません。