

新潮文庫『李陵・山月記』所収『弟子』
2020.4.10に行った中島敦『弟子(ていし)』読書会のもようです。
私も書きました。
「与えられた範囲で常に最善を尽くす」
(引用はじめ)
世の溷濁(こんだく)と諸侯の無能と孔子の不遇とに対する憤懣焦燥を幾年か繰返した後、ようやくこの頃になって、漠然とながら、孔子及びそれに従う自分等の運命の意味が判りかけて来たようである。それは、消極的に命なりと諦める気持とは大分遠い。同じく命なりと云うにしても、「一小国に限定されない・一時代に限られない・天下万代の木鐸」としての使命に目覚めかけて来た・かなり積極的な命なりである。匡の地で暴民に囲まれた時昂然として孔子の言った「天のいまだ斯文(しぶん)を喪(ほろぼ)さざるや匡人(きょうひと)それ予(われ)をいかんせんや」が、今は子路にも実に良く解って来た。いかなる場合にも絶望せず、決して現実を軽蔑せず、与えられた範囲で常に最善を尽くすという師の智慧の大きさも判るし、常に後世の人に見られていることを意識しているような孔子の挙措の意味も今にして始めて頷けるのである。
(引用おわり)
1月下旬から始まった新型コロナウィルス騒動であるが、どうやら政府の一貫性のない対応を見ていると、自分で自分の身を守るしかないという判断に至らざるをえない。
政治の目的は、人間社会の不満を解消して、秩序を維持することだ。社会の不満は、火がついてくすぶっているゴミに似ている。そのまま放っておけば、燃えさかって、生命や財産が危険にさらされる。哲学者や知識人は。くすぶりの解消のために、ゴミ焼却場を設計して、政治家はその焼却場を建設するのが仕事だ。くすぶっているゴミが処分できれば、社会秩序は、その分だけ保たれる。
孔子は、ゴミ焼却場の設計者であり、登用されれば建設者だった。その上で、社会の木鐸(教導する人)たらんとした。『弟子』を再三再四読むたびに孔子様への尊敬は深まる。
しかし、現代の我々は、どうだろうか。己を鑑みても、自分だけ良ければいいのではないかという思いに流れていくのを抑えられない。浅ましさから自分を律するのだけで精一杯だ。
子路の嫌悪した『一身の行動を国家の休戚(きゅうせき=幸不幸)より上に置く考え方は、恥ずかしながら、私の今の心の底にはびこる考えである。自分に使命があるならば、天は味方するはずだ。そう思いたいが、こんな希望も、子路の最後を見れば、甘い期待に過ぎないことがわかる。
凡人の私は、せめて自分の出したゴミで人様に迷惑をかけないこと。不要不急の外出を避け、手洗い・うがい・消毒を励行して、新型コロナの収束まで、静かにしていることしかできない。
(おわり)
読書会の模様です。