大岡昇平『俘虜記』読書会のもよう(2019 6 14)

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2019.6.14に行った大岡昇平『俘虜記』読書会のもようです。

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私も書きました。

 『戦争とジャーナリズム』

 

そのウェンディが時事解説だけは読まない。「政治は嫌いだ」と彼はいっていた。

そういうアメリカの雑誌乱読と、一人の常識あるアメリカ人との会話から私の得た印象は、無関心な人民の上に張り廻らされた、巨大な幻惑装置のそれであった。ウォール街とホワイト・ハウスの紳士方も、この金のかかる装置によって少しも人民と繋がっていはいない。ただ、ジャーナリズムには無関心たり得るほどの安楽を、彼等に与えることで繋がっているだけである。 『労働』

 

大岡昇平の収容されていた俘虜収容所の監督のウェンディは27歳独身、デトロイトのフォード社の事務員であり、アメリカの小市民である。この『小市民』なる言葉がなにを意味するかは、あいまいなのだが、日本の中年補充兵の『小市民的エゴイズム』は、日常的な狡知によって、戦争の災厄を日常的に切り抜けることであった、とある。(『季節』)

ウェンディもまた、別の日常に生きていた。つまり、フォードの自動車工場のテイラーシステム(科学的管理法)で、収容所を管理したのだ。すなわち、工場労働者の管理のための日常的な事務作業の要領で、俘虜を監督したということだ。彼が、大岡氏に握手もせずに除隊したのは、職務が、あくまでも事務作業だと割り切っていたからだ。

 

握手すれば、お互いの立場を超えた一つの政治的な結合だろう。彼は、それを拒否した。安っぽい感傷で、政治を捉えていないから、「政治が嫌いだ」とウェンディは言い切るのだろう。ジャーナリズムとは、感傷的なメロドラマで人民を幻惑するだけの音色であり、マスメディアはアンプ装置である。それに対して、本来の小市民のエゴイズムは、ドライである。

ジャーナリズムの情報によって、情報の非対称性が消え、支配階級の仲間入りできるわけではない。人はそれぞれの卑小な日常から、己の身の丈にあった政治的立場を選びうるだけだ。祖国が負けて夜中に一人で泣きべそをかいた大岡昇平だって、ドライな認識があったのに、涙が止まらなかったのである。

ウェンディが、握手してくれなかったのを、少し恨みに思う大岡の感傷性。それを批判しないと、ずるずるべったりの日本の感傷的な政治風土を批判できない。だが、これは、難しい、と思う。

御用ジャーナリストが醜いのは、彼等のポジショントークは、感傷的な小市民を騙す一方で、自分が入れるはずもない支配階級の夢を見ていることの愚かさにある。その構造もわからないのだから、私たちの頭を覆う幻惑装置は、よく出来ている。

(おわり)

 

  • 2019 10.05
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