2019.10.19に行った吉行淳之介『驟雨』読書会のもようです。
私も書きました。
『八方塞がり』
脚の肉をつつく力に手応えがないことに気付いたとき、彼は杉箸が二つに折れかかっていることを知った。(P.175)
サラリーマンでありながら、逸民であるというのは、これは、どだい無理な話である。先祖伝来の刀を売って、道子の部屋に通う思いつめ方はというのは、隠者のセリバシー(去勢行為)めいたものを感じる。赤線の隠者を気取る山村に自己処罰にイロニーを感じる。イロニーとは、信じてもないことを信じているふりをする美学的態度だ。八方塞がりの彼は、小さな妄想の中で衛生を保とうとして演技する。道子は、山村の趣味の良いおままごとの衛生管理に協力する。
最終部、道子を巡る妄想の中に、ポッカリと現れたのは、友人の古田が社の重役の令嬢と結婚しながら、この夜の街にやってくる姿だった。他の客が、道子の軀を買っても、彼女が山村のために操を守ってくれていると、信じられただろう。しかし、古田となると話は別だ。古田が興味本位で妄想をかき混ぜれば、山村は、赤線の隠者から、資本主義社会のサラリーマンの年功序列の中へと暴力的に引きずり戻され、辱められる。
新婚で出世の約束手形を手に入れた古田が、山村の入れ込んでいる道子を買いにくる残酷さは、道子の娼婦の顔を朝日の中に暴こうとする残酷さと同じだ。因果応報だ。
戦後の虚妄のなかで、嫉妬を克服できれば、そんな楽な話はない。ただ、夜の街では、山村のようなサラリーマンでも嫉妬を刺激の一つとして飼いならせる。
この赤線の隠者は、金貸しの老婆の頭を斧でかち割って、罪の意識に正気を失い、娼婦に『ラザロの復活』を読むことをせがみ、彼女とシベリアで生活をやり直せるわけではない。
そうでない以上、突き詰めれば、「もっと早く死ぬべきだのに何故生きていたのだろう」という『こころ』のKの遺書の余白のセリフにたどりつく。驟雨のうちに一瞬に裸になる贋アカシアのように、八方塞がりの中で、山村のおままごとのレイヤー(層)が、いっきに剥がれ落ちていく。
(おわり)
読書会の模様です。