2018.5.18に行った、ミヒャエル・エンデ『モモ』読書会のもようです。
私も書きました。
「モモと直観」
マイスター・ホラは、モモにこう言った。
「もし人間が死とはなにかを知ったら、こわいとは思わなくなるだろうにね。そして死をおそれないようになれば、生きる時間を人間からぬすむようなことは、だれにもできなくなるはずだ」 P.237
カント以降の哲学では、人間は、時間と空間に縛られた世界に現象化していると考えられた。
そして、時間に縛られて生きていることを人間だけが自覚している。それをもって「現存在」という。犬猫には過去とか未来という時間軸はない。人間だけが、自分が死ぬことを知っている。犬猫は死を避けるだけだ。
反対に言えば、人間の認識する現象は時間を前提としている。
アキレスと亀の寓話(ゼノンのパラドックス)というのがある。アキレスは亀を追い越すまで、追い越せないという話だ。追い越す瞬間が、いつ来るのか? 数字で表象すると有限の中に無限が現れてしまう。有限の時間の中に、無限が隠されている。
人間は有限な存在だが、無限を直観して生きている。生は有限であり、死は無限だ。生きている人間は常に限りなく死につつある。
今という瞬間は、我々の生命エネルギーの発現そのものだ。モモは、みんなの生命を刺激して、直観力を促進する。円形劇場は、直観のなかで人間の自分の生命そのものに迫るために舞台であり、時間の花は、直観によって人間が「絶対」「完全」「無限」を体験するフロー状態の比喩だ。
時間を数えることは、死んだ時間の分析である。一方、ワクワクしている時間は、フロー状態のように体験されるものだ。
モモはただジジをじっと見つめました。なににもまして、ジジが病気だということ、死の病にむしばまれているということが、よくわかりました。 P.308
時間の奴隷になってしまったジジは、想像力が枯渇してしまった。ジジの想像力の源泉は、リラックスしたモモとのおしゃべりの中にあった。彼はモモを失い、生きながら死んでしまった。
時間泥棒の絶望的なマンネリ感は、直観を殺し、生命を殺す。
(おわり)
読書会の模様です。