先日、選挙があった。投票率は53.68%。
ジャン=ジャック・ルソー(1712-1778)という思想家が、
人民主権論を説いた『社会契約論』で次のように書いている。
人民が自分たちの王を信任することについての文章なのだが、
これはそのまま、人民が自分たちの代表である代議士を選ぶことにも
当てはまる考え方である。
選挙が全員一致でないかぎり、少数者は多数者の選択に
従わなければならないという義務は、一体どこにあるのだろう?
主人をほしいと思う百人の人が、
主人をほしいと思わない十人の人に代わって票決する権利は
いったいどこから出てくるのだ?
多数決の法則は、それ自身、約束によってうちたてられたものであり、
また少なくとも一度だけは、全員一致があったことを前提とするものである。
ルソー『社会契約論』 岩波文庫 P.23
投票率が50%に近いということは、半分が選挙に行かないわけだから、
民主政治(デモクラシー)が、形だけになってきている証拠なのだが、
ただ、選挙に行かなかった人にも、「選挙で代議士を選ぶという合意」はある。
多数決は多数決で決めるという全員一致の約束があるから成り立っているように
選挙も、選挙で国民の代表たる代議士を決めるという、全員一致の約束がある。
その全員一致が、なくなれば、どこぞの後進国のように、
投票所が選挙無効を訴える武装集団に襲撃されたり、
あきらかな不正選挙が横行する。
選挙で代議士を選ぶという全員一致の約束=国民の合意が、
どこかで行われたという事実が重要だ。
この合意は、私の見立てでは、おそらく、
明治22年2月11日の大日本帝国憲法発布にあると思う。
(夏目漱石の『三四郎』は、この合意を、広田先生の初恋の少女として描いている)
このとき、選挙で代議士を選ぶという合意が、全員一致の約束としてなされている。
(条文にそんなこと書いてないが、大日本帝国憲法発布は、国民の合意を形成した)
投票率が低くても、合意そのものが否定されない限り、選挙結果は有効だ。
この合意があるかぎり、有権者が投票に行かなくても、
民主政治は、維持される。
ただ、民主政治に関する合意はあるが、
代議士の選択に民意が反映していないということだ。
社会契約からすれば、そういう解釈になる。
新約聖書のマルコ福音書12章 38節-44節に
『学者の偽善 寡婦のレプタ』というエピソードがある。
またその教えの中で、こんなことを言われた、
「聖書学者に気をつけよ。あの人たちは人の目につくように
長い衣を着て歩くことや、市場で挨拶されることや、
礼拝堂の上席、宴会の上座が好きである。
また、寡婦の家を食いつぶし、長く、見かけばかりの祈りをする。
あの人たちは人一倍きびしい裁きを受けるであろう。」
それから賽銭箱の真向かいに坐って、
群衆が賽銭箱に金を入れるのを見ておられた。
大勢の金持ちが沢山入れているとき、
ひとりの貧乏な寡婦が来て、
レプタ銅貨(5円)二つ、すなわちローマの金で、
一コドラント入れた。
イエスは弟子たちを呼びよせて言われた、
「アーメン、私は言う、あの貧乏な寡婦は、
賽銭箱に入れただれよりも多く入れた。
皆は余る中から入れたのに、あの婦人は乏しい中から、
持っていたものを皆、生活費全部を入れたのだから。」
新約聖書 『福音書』 岩波文庫 P.51-52
寡婦は、生活費の全部を賽銭箱に入れた。
生活が苦しい人ほど、選挙に行かなければならない。
選挙を棄権すべきだとかいう物知りは
イエスの非難した聖書学者と同じだ。
自覚なく、寡婦を食いつぶすようなことをしている。
見かけばかりの理論で政治を語って、民衆を惑わしているから
今に人一倍きびしい裁きを受ける。
お金持ちの一票も、そうでない人の一票も、平等だ。
この社会で報われず、虐げられていると感じる人ほど、
台風でずぶ濡れになりながらも、投票すべきだ。
選挙で一票を投じるのは、
寡婦が賽銭箱になけなしの生活費を投ずる行動と同じく
それ以前の合意があるから成立している。
政治制度への合意が
宗教的信念と無縁だと誰がいい切れるのだ。
賽銭箱の金が、どう遣われようが、寡婦の切実な信念がなければ
宗教は成り立たない。
神の怒りで、賽銭箱ごと神殿は崩れ、なくなるだろう。
神との契約も、社会契約も、信念なくして成立しない。
多数決で決めるという合意は、信仰と同じだ。
民主政治を支えるのは、一票を投ずる有権者の合意だ。
神への信仰を支えるのは、生活費を投ずる寡婦の思いだ。
選挙の結果より、選挙制度への合意そのものが危機に瀕している。
信じることへの危機だ。
(おわり)