
2016.12.16に川端康成の『雪国』のツイキャス読書会を行いました。
信州読書会のメルマガ会員さんに書いていただいた感想文の一覧です。
私も書きました。
『因果の総体、天の河』
『為体の知れない娘(※注 葉子)と駈落ちのように帰ってしまうことは、駒子へのはげしい謝罪の方法であるかとも思われた。またなにかしらの刑罰のようでもあった。』
島村が三度目に『雪国』を訪れたとき、なぜ、駒子は三度目の年季に入っていたのか? 彼女は、生活の苦しい実家のために、東京に芸者に出た。二度目は、許婚だった行男の治療費を捻出するため。三度目は、もしかしたら、気の狂れかかっている葉子の生活費を援助するためだったのではないか? 『私の荷を持って行っちゃってくれない?』という駒子のセリフに、そのことが暗示されている。
駒子が、師匠や行男の墓参りをしないのは、嫉妬深い葉子への配慮である。村上春樹の『ノルウェイの森』で、自殺した直子が、ワタナベ君に『野井戸』について語る夢のくだりがあるが、葉子もまた、直子と同じように『野井戸』に落ちている。『死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。』とは、葉子の存在のことを指す。葉子は、生きながらに死に囚われている。駒子が墓を参らない理由は、『生きた相手だと、思うようにはっきりも出来ないから、せめて死んだ人にははっきりしとくのよ』というセリフに表れている。駒子は野井戸の前で踏みこたえている。葉子は取り憑かれたように墓参する。Let the dead bury the dead.(死者をして死者に葬らしめよ マタイの福音書8-2)
駒子のみうちには熱い生がある。葉子の澄んだ目は、死だけを見つめている。
火事場で葉子を抱く『駒子は、犠牲か刑罰を抱いているように見えた』
島村は、不謹慎にもこのまま葉子が死んでくれれば、
駒子が、葉子からの憎しみから解放されると考えただろう。
しかし、葉子と関係のない駒子には、二度と関係しないだろう。
彼は、葉子と駒子の間に横たわる生と死のスリルを悲劇として堪能した。
わずかに、呵責と苦痛と悲哀を感じた。
死もその一部であるところの生のすべてが、天にひろがっている
悠久の時を流れるのは、見えるものと見えないものの因果の総体であった。
(おわり)
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